藤田嗣治展 | 原元美紀 オフィシャルブログ 「原元美紀のミキペディア」 Powered by Ameba

藤田嗣治展

東京都美術館で開催中の

「藤田嗣治展」に行ってきました。

 

パリに愛された天才画家、

フジタの作品を間近で見ることができるなんて!

 


フジタの作品との出会いは中学の美術の教科書。

 

それまで劇画のように激しいドラクロワや

エッシャーのだまし絵のような作品を好んでいた

14歳の私でしたが、

フジタ作品の透き通るような

独特の気高さを感じさせる繊細なタッチに

一瞬で魅了されてしまいました。

 

「これ、誰ですか!?」と美術教師に尋ねたら、

「お、なかなか見る目あるわねぇ。レオナール・フジタよ。

面白い画家だから、自分で調べなさい。」

とニヤリとしながら突き放されました。

 

「レ、レオナール?日本人?」

 

名前をヒントに調べると、

藤田嗣治は明治半ばに日本で生まれ、

第一次世界大戦前よりパリで活躍した日本人画家であり、

その才能は評価が高く、

なんとあのピカソやモディリアーニと親交があったとか。

 

(スキンヘッドのピカソと

おかっぱ頭にちょび髭、ピアスのフジタの2ショット、

迫力あったでしょうね〜)

 

 

しかし、戦時中日本軍の依頼で戦争画を描いたことから

終戦後、戦争責任を問われ、

嫌気がさして日本国籍を捨てフランスに帰化。

 

カトリックの洗礼を受けレオナールの名をもらい、

(レオナルド・ダ・ヴィンチから付けた)

81歳で生涯を閉じ、フランスに永眠、

 

時代に翻弄され、祖国を捨て、

二度と日本の地を踏むことはなかった天才画家、

ということが分かりました。

 

彼の生き様は、

作品にどのような影響を及ぼしたのだろうか。

 

いつか知りたい。

見てみたいと願っていました。

 

そのチャンスがやって来たのです!

 

今年はフジタの没後50年ということで、

大回顧展が上野の東京都美術館で開催、

フジタの生涯を年代順に感じることができるかつてない作品群が

来日したのです。

 

一番見たかったのは、「乳白色の裸婦」。

肌色の美しさがパリで大絶賛され、フジタの代名詞となりました。

 

 

間近で見ると、ため息が漏れるほど美しい・・・。

そっと開いた貝殻の内に潜んでいた真珠のように

無垢でツルンとしたツヤ。

けれどかすかな陰影が肌の柔らかさを想像させます。

 

実はフジタは「白」を「色」として扱う画家がいないことに気づき、

「白色」を初めて扱った画家なのだそうです。

 

モネやゴッホといった印象派の画家の多くの作品は、

絵の具をボテっとキャンバスに乗せて「厚塗り」で描くので、

絵の具の厚みが凹凸を生んでいるのですが、

フジタの作品はその点「薄塗り」。

 

横から見ても下から見上げても、

どこまでもなだからなんです。

思わず撫で回したくなってしまうの。

 

 

そして、もう一つフジタがよく描いたのが、猫。

 

猫のユーモラスな表情に思わず顔がほころんでしまいます。

 

 

猫と裸婦がトレードマークのフジタは、

 

「女と猫はそっくりだ。

普段おとなしいけれど、時々猛々しくなる。

構わないと不機嫌になる。

女にヒゲとしっぽをつけたら猫そっくりだ」

 

と語ったとか(笑)

 

 

さて、パリで活躍していたフジタは

第二次世界大戦勃発で日本に帰国します。

 

他の日本人芸術家たちのように軍から戦意高揚に協力を要請され、

フジタもいわゆる「戦争画」を描きました。

 

芸術が戦争に利用される時代を迎え、

繊細な美を表現して来た画家フジタの作風は一変。

どんな思いでいたのでしょうか?

 

そのうちのひとつ、「アッツ島玉砕」は、

写真と想像力で、自らの意思で描いた作品です。

 

 

なんということでしょう。

縦2メートル、幅2.5メートルもの大きなキャンバスが

茶色く塗り尽くされていました。

 

フジタの代名詞、

あの気高く優しい「乳白色」はどこにも見当たりません。

 

有るのは、おびただしい数の死体の山です。

 

1943年5月の北太平洋アリューシャン列島日米の戦闘で、

18日間続いた死闘の果て、

戦死者は日本軍の約2600名、米軍600名。

 

日本軍の生存率は1%に過ぎなかったとか。

 

”人間が殺しあう”

戦争とは、色をも奪うのですね。

 

どんな言葉よりも強く凄惨さが胸に焼き付けられました。

 

 

そして終戦後、

フジタは陸軍美術協会理事長という立場であったことから、

一時はGHQからも聴取を受けるなど身を追われることとなります。

 

すべての日本人画家を代表して戦争責任を負わされたフジタは

日本を去る決意で渡仏。

 

1955年にフランス国籍を取得、

1957年フランス政府から

レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、

二度と日本の地を踏むことのなかったフジタですが、

日本を捨てたわけではありませんでした。

 

彼の作品には日本の伝統が用いられています。

右手に握っているのは「面相筆」。

日本画で輪郭線など細い線を描くのに使用される筆です。

 

フジタはこの「面相筆」と「墨」を使って

あの繊細な線を生み出していたのです。

 

81歳で生涯を閉じるまで

人生の約半分をフランスで暮らしたフジタは、

こんな言葉を残しています。

 

「私は世界に日本人として生きたいと願う。」

 

 

 

「藤田嗣治展」

 

東京都美術館(東京・上野)

10/8(月・祝)まで開催されています。