気仙沼の今
仙台空港は復旧したものの、
羽田からの便は満席で取れず、
新幹線で福島駅まで、
その後は、在来線リレー号に乗り換えて仙台駅に。
そして、宮城県庁前から出るミヤコーバスに2時間半揺られ、
ようやく気仙沼駅へ到着。
朝7時過ぎに東京駅を出て、
14時前に着いたのだから、
実に7時間近い移動。
気仙沼港に向かうと、
突然目に飛び込んでくる痛ましい光景。
大きな船が底を見せて、横倒しのままである。
この鹿折地区は、津波で重油タンクが倒壊し漏れ、
震災当日大規模火災が発生。
一晩中街を焼き尽くしたあの映像が脳裏に蘇る。
津波が置いて行った辺りを覆い尽くす泥の匂いに、
焼け焦げた煤の匂いが重なり、
どれほど凄惨な状況だったかを毛穴の一つ一つで感じる。
一通り取材を済ませ、
翌日は飛行機で東京へ帰る。
仙台空港へ向かう高速道路から
海沿いの地域へ目をやると、何もない。
すかさずiPhoneのMAPで確認をすると、
やはり地図上には街は確かに存在した。
でもそこに記された建物が
みな津波に飲み込まれ消失したのだ。
時折見つける建物は、鉄筋コンクリートのマンションくらい。
でも、中は津波に洗われ、空のようだ。
遠く海沿いの松の木一本一本まで見通せる。
ああ、こーいうことなのか、
と改めて虚無感に襲われる。
空港周辺はニュース映像で見た通りの光景が今もそのまま。
小型機が民家に乗り上げていたり、
押し流された自動車が積み上げられている。
瓦礫の山は重機よりも高くなっているため、
クレーンの先端がわずかに覗け、
作業中なのがようやく分かる。
仙台空港は灯りはほとんどないが、
たくさんの寄せ書きや千羽鶴が出迎えてくれた。
私は地元の人ではないけれど、
手書きの文字の一つ一つに温もりを感じ、励まされる。
因みに空港のトイレはまだ仮設だ。
「がんばろう 日本」
の文字が書かれた機体に乗り込む。
機長によるアナウンスに
沈痛なお見舞いの言葉が並び、切ない。
いよいよ離陸。
空から見下ろす被災地の様子は、
「色が無かった」。
果てしなく広がる茶色い泥。
海岸線は曖昧になり、
泥と波が絡み合って小さな渦を描いていた。
今は穏やかな波間に、
不釣り合いなほど木材が浮かぶ。
機体は仙台を大きく旋回してから、
福島県相馬市上空へ。
高度が低いため、
山や谷や家々がはっきりと見て取れる。
また、人の手が入ったいわゆる里山が
眼下にどこまでも続く。
少ない平地がきれいに耕され、
そこに暮らす人々の営みが感じられる。
" そうだ、これが日本の風景なんだ "
こんなに愛おしい気持ちで
国土を眺めたのは初めてだ。
声一つない機内に気づいて辺りを見渡すと、
乗客はみな窓に顔を押し付けて
この光景を目に刻みつけていた。
重苦しい空気というよりも、
自然の脅威と、
立ち直ろうとする人々の意欲に対し、
私たちは敬虔な気持ちに包まれていたと思う。
1時間ほどで、
高層ビルが立ち並び、
直線できちんと整備された羽田空港に降りたとき、
「帰ってきてしまった」
と誰かがつぶやいた。
ごめんなさい。
また行きます。
何度でも行きます。
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