「恐れることは無い」マタイ28:1~10 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。


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おはようございます。伊東市・中小企業元気アドバイザー、

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をまとめたものです。

■「恐れることは無い」マタイ28:1~10

復活説の夕べ、主イエス様の蘇りの物語を学んでいきましょう。

1.女弟子たち

イエス・キリストが十字架で処刑され、墓に葬られた後の出来事。

28:1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、

マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。


主イエスの御遺体に香料を塗るために女弟子たちが

まだ薄暗い明け方近くに、イエス様が葬られたお墓に

向かいました。

当時女性は社会的に非常に弱い立場にありました。

女弟子の筆頭にある「マグダラのマリヤ」はかつてイエス様に

「7つの悪霊を追い出して頂いた」とあるように

大変重い重大な問題・病を抱えていた。

このような女性が生活を立てるには体を売るしかない。

他の女弟子たちも同じような境遇であったと思われます。

そういう女性たちが「イエス様が死んでしまった」と言って

彼女たちが帰る場所があるわけではなかった。

男弟子たちは漁師に戻ろうと思えばできる。

仕切り直しをすることができる。

けれども、彼女たちは、後戻りする場所はない。

イエス様に全てをかけ、信頼をしてついてきた。

そのイエス様が殺されてしまった。

人生の絶望の中に彼女たちはありました。

旧約聖書の時代は安息日は土曜日でした。

けれども今、私たちは土曜日ではなく日曜日に礼拝を守っています。

それは、イエス様が蘇り天に帰られるまでの40日間

決まって日曜日にそのお姿を弟子たちに現わされた。

また、イエス様が天に帰った後のペンテコステ・聖霊降臨の日も

週の初めの日、日曜日だった。

このことを受けて初代教会は日曜日を聖別するようになったのです。

ということは安息日が土曜日から日曜日に替わる大転換は

今晩、私たちが学んでいる記事、日曜日の早朝、主イエスの墓を

目指して出かけていった女性たちに始まることが分かります。

社会的立場が弱く絶望の中にいた彼女たちを神様は最初の礼拝者と

して受け入れて下さった。

女性たちは主イエスの復活を期待していたわけではない。

死んでしまったイエス様に絶望しながら、それでも何か

できることはないかと思って行動したのです。

イエス様の墓の前には動かせない大きな石で封印されていた。

どうやって石をどかすなど考えもせずに高価な香油を買って

しまったのです。

とにかく、イエス様の御遺体に香油を塗らなくては・・・

その思いだけで行動してしまった。

28:2
すると、大きな地震が起こった。

それは、主の使いが天から降りて来て、

石をわきにころがして、その上にすわったからである




信仰というものはまさにこういうものなのです。

イエス様は死んでしまい、しかも墓の前には大きな石があり

封印されてしまっている。

何の望みもない、絶望的な状況の中で、

どうしようもないと思えるときに

それでも主イエスに希望を持って前に進んでいく。

何か打算があって、目論見があって、だから進むのではなく

計算が成り立たない、自分の望みが潰れて目の前には墓しかない。

それでも主イエスを一心に見つめて進む。

これが私たちの信仰の心です。

イスカリオテ・ユダは賢く知恵があり計算上手でした。

しかし、そのユダが真っ先に倒れた。

世の中のことが分からない無学な女弟子たちが復活のキリストに

まみえる第一の人として選ばれるとう栄誉に与りました。

アントニー・デ・メロというカトリックの司祭が書いた

本の中のお話です。

ある無神論者が足を滑らせて崖から落ちかかります。

彼は小枝をつかみ崖の途中でぶら下がって

力の限り神に助けを求めました。

「神よ、もし存在しておいでなら、どうか助けて下さい。

あなたを信じます。あなたを信じるように人々を説き伏せます。

だから助けて下さい」

すると神の声が響きました。

「困った人は誰でもそういうよ」

すると彼は食い下がって

「私はほかの人とは違います。

あなたの声を聞いたから信じているのです。

それがお分かりにならないのですか?

今、あなたがなさるべきは私を救うことです。

そうなされば、私は世の果てまであなたの名を告げ知らせましょう」

神は彼のこの言葉を聞いて、このように答えました。

「よろしい、あなたを救おう。枝から手を離しなさい」

このエピソードを通してアントニー・デ・メロが伝えたかったことは

「奇跡が目の前で起こったから信じる。

私の病気を治してくれたから、この問題を解決してくれたから

私は神を信じます。」

そうやって信じることに条件をつける人

信じることを交換条件にしようとする人

しかし、信じるということはそういうことではありません。

飛び込まないではおられない。

計算を捨て、計算を超えたところに信仰があり

そこに蘇りのキリストの恵みが注がれます。


2.シャローム

28:9すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。

彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。


この「おはよう」という言葉はただの朝の挨拶ではなく

「おはよう、こんにちは、こんばんは」

すべて同じ挨拶の言葉、「シャローム」というヘブル語が用いられています。

シャロームには、‘平安’、‘平和’という意味があります。

イエス様は女弟子たちに

「平和がありますように」と言ってご自身を現してくださったのです。

この「平和」を意味するシャロームは、ただ単に争いのない

戦いのない状態を表すものではなく、完全に満ち足りた、

不足しているものが何一つない充足した状態を表す言葉です。

目に見える戦いがなくても、私たちの心のうちに激しい憎悪や怒りが

煮えたぎっていることはいくらでもあるのではないでしょうか?

「シャローム」

平安があるように、満ち足りた者であるように

とイエス様は女弟子たちに言われました。

けれどもイエス様は彼女たちに

「そうなりなさい」ということではありません。

「そうなれる。事実そうである」

そうおしゃっているのです。

ある説教者の言葉です。

「信仰とは神の言葉によって現実を貫くことだ。

こちらには言い分がもあり、注文もある。けれども

神の御前に沈黙することである。」

靴が足の大きさを決めるのではなく、足が靴の大きさを決めるのです。

どんな素敵な靴があったとしても、その靴に自分を合わせることは

出来ない。これと同じように私たちの考えや思いや感情が

私たちの人生を決めるわけではありません。

私たちのセンスを基準に、それに合った人生を選ぶというのは

愚かな生き方です。

私たちの不安や恐れや絶望のただなかに

「シャローム、恐れることはない」と言葉を注いで下さる

神様が私たちの人生を決めるのです。

しばしば、キリスト者が歴史において大きな社会的な

業績を残します。

それは彼らの資質がそうしているのではなく

彼らが自らの常識や能力を基準にした生き方ではなく

神の計画・神の言葉を基準にした生き方をしているからです。

自分自身の常識や能力に従った生き方は

靴を基準にして無理やり足を突っ込むような生き方であり

そこには何も生まれません。

しかし、神を見上げ、神に望みを抱き、神の言葉と計画を

基準とするならば、その人の歩みは大きく用いられます。

神様が私に何を望んでおられるのか、自分を見るのではなく

神様を見上げるのです。

信仰とは神の言葉によって現実から目を逸らすことではなく

現実を直視する力を与えていただくもの

そこに向き合わせ、そこに望みを見出す力なのです。

信仰があるからこそ、誰よりも厳しい現実を直視できる

正面から向き合える。

墓場にも望みを備えたもうキリストを信じて正面から出ていくことが出来るのです。

イエス様は2000年前の甦りの朝、女弟子たちに語り下さった

と同じように皆さん、お一人、お一人に語り掛けておられます。

「シャローム、恐れることはない」

平安を与え、満たしを与え、シャロームを宣言された

イエス様がおられる。

私たちが神様の言葉に信頼し、神の言葉に合わせて生きる。

これが復活の信仰なのです。



大事なことは、いつも聖書とロックが教えてくれた。


ラヴ&ピースKeep on Rock’n


今日も楽しく、誇りをもって行こう!




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