「まだ遅くない」創世記27:18~40 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。


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おはようございます。伊東市・中小企業元気アドバイザー、

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をまとめたものです。

■「まだ遅くない」創世記27:18~40

川奈聖書教会火曜礼拝では、アブラハム、ヤコブという二大族長の狭間にある

二代目イサクを学んでいます。

1・リベカ、ヤコブの策略

イサク一家の混乱が続きます。

兄エサウになりすまし、長男、後継ぎとして祝福を奪うよう

勧める母リベカの企てにより、ヤコブはヤギの毛皮を着て

視力の衰えた父イサクを騙します。

27:18ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。

イサクは、

「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。

ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。

私はあなたが言われたとおりにしました。

さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。

ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。

 イサクは、その子に言った。

「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」

すると彼は答えた。

「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」


そこでイサクはヤコブに言った。

「近くに寄ってくれ。わが子よ。

私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、

おまえにさわってみたい。」

ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。

「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」

ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、

イサクには見分けがつかなかった。

それでイサクは彼を祝福しようとしたが

「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」と尋ねた。

すると答えた。「私です。」


2.取り消すことが出来ない祝福の祈り

ヤコブは父イサクを騙すことに成功し、祝福の祈りが与えられます。

27:28~29
神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と

新しいぶどう酒をお与えになるように。

国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、

おまえは兄弟たちの主となり、

おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。

おまえをのろう者はのろわれ、

おまえを祝福する者は祝福されるように。」





この祈りをイサクもリベカも、そしてエサウもヤコブも

執着していました。

イサクはこの祝福をエサウに、リベカはヤコブに

と願った。

ヤコブ自身もこの祝福に初めからこだわりがあり

エサウにもありました。

エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、

27:34
ひどく痛み悲しんで父に言った。

「私を、お父さん、私も祝福してください。」


信仰のかけらもないようなエサウにとっても

この祝福は価値があるものだったのです。

しかし、この箇所はなかなか理解することができません。

たとえば、結婚式や洗礼式で牧師が花嫁や洗礼を受ける人の

名前を間違えたとして、その結婚式や洗礼式が

神様はその結婚や洗礼をお認めにならないか?

そんなことはありません。

逆に牧師が私利私欲で誰かを祝福して、その祝福が

有効であるのか?人を騙して得た祝福にどれほどの

価値があるのか?

イサクを騙してヤコブに祝福した、その祝福に対して

大いに疑問を持つところでです。

しかし、この祝福は有効なもの、取り消すことのできないもの

として認められるのです。


27:37
イサクは答えてエサウに言った。

「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、

しもべとして彼に与えた。

また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。

それで、わが子よ。おまえのために、

私はいったい何ができようか。」 エサウは父に言った。

「お父さん。祝福は一つしかないのですか。

お父さん。私を、私をも祝福してください。」

エサウは声をあげて泣いた。


騙されたイサクも出し抜かれたエサウもこの祝福の祈り

の有効性を認めざるを得ない。

このことは一体、私たちに何を教えているのでしょうか?

その手がかりはヤコブに出し抜かれたことを知らない

エサウが猟から戻り、料理をもって入ってきます。

27:32~33
「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。

あなたご自身が私を祝福してくださるために。」

すると父イサクは彼に尋ねた。

「おまえはだれだ。」彼は答えた。

「私はあなたの子、長男のエサウです。」

イサクは激しく身震いして言った。


「イサクは激しく身震いして言った。」

この言葉は特別な意味を持ちます。

直訳すると

「大きなおののきを、非常におののき」

おののきかが重なり合う。

自分が祝福したのがヤコブであったことに気付いたときに

天地がひっくり返るほどのおののき、恐れを感じた。

この恐れは自分を騙したリベカとヤコブに対する怒りではなく

そのおののきの要因は神様に対してでした。

自分の思いを超えて働いた主の御業におののいた。

エサウを後継ぎと考えていた自分の計画を阻止され

御心を為された主がおられることに恐れおののいたのです。

自分が神に逆らおうとしていたことの

強烈な自覚の中で恐れを感じたのです。

エサウとヤコブがまだリベカの胎内にあったときから

定められていた主の御計画

25:23
「二つの国があなたの胎内にあり、

二つの国民があなたから分かれ出る。

一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」


イサクはエサクを愛し可愛がりながら

いつもこの御言葉が頭にあった。

主の御心が成った。エサウを祝福しようとしたが

主はご自身の選びを成された。

リベカとヤコブが自分を騙したことは

どうにも正当化することはできないけれど

そうしたことを超えて騙された祈りをしたイサク本人が

そこに働かれた主のお力を感じないではおられなかったのです。

イサクは自分を騙したレベカとヤコブに対して激しく怒るような

ことはせずに、自分自身の過ちの大きさに身震いし

神の御臨在の前にへりくだるよりほかになかったのです。

自分の愚かさと神の確かさをはっきりと見たのです。

自分が一度祈ったからもう取り消せない

という話ではありません。

自分の祈りが神の御支配の中にあったことを認めて

もう取り消すことが出来なかったのです。

「あんなのは無効だ」とリベカとヤコブに対して

怒り狂い、エサウを祝福していたらどうなっていたでしょう?

もう収拾がつかなくなっていたでしょう。

けれどもイサクがギリギリのところで踏みとどまることができた。

どんなに大きな失敗の後でも、主の働きを認め

自分の罪を認めるときに主はそこに新たな道を備えて下さる

ことを、この後のイサク一家の歩みの中に知るのです。

一方のリベカとヤコブはどうでしょうか?

結果的にヤコブが約束の祝福を受け継ぐことは

神様の御心に適っていました。

しかし、だからといって二人がしたことが良いことだった

という考え方は間違っています。

これは、イエス・キリストを迫害しユダヤの宗教指導者たちが

十字架につけた。

ユダが裏切らなくても、律法学者たちが迫害しなくても

イエス様は十字架にお掛かりなったのです。

神様は人間の良い業も悪い業も、何もかも用いて

ご自身の御心を成し遂げることができるお方です。

ですから、

「悪いことをしたけれど、良いことのきっかけになったから

良かった」と罪をうやむやにしてはいけないのです。

神様は人間の悪を必要とされていないことは言うまでも

ありません。

ユダが裏切ったことでキリストは十字架にお掛かりになった。

だから宗教指導者たちがしたことは結果的に

イエス・キリストの十字架を実現させる手助けになった。

ユダの行動はキリストの十字架に必要なことだった。

こういう考え方が間違っているのと同じです。

神様は少なくとも人間の悪は必要とはしていないことは

いうまでもありません。

この後すぐにリベカとヤコブは

自分たちがしたことの報いを受けます。

誰一人、得をしなかった。

神様の信頼を抜きにして戦った結果、皆が痛みを負ったのです。

3.まだ遅くない

このように、極限まで憎しみあい、騙し合いが起こったときに

しばしば修復不能ないさかいとなってしまいますが

イサク一家はギリギリのところで踏みとどまることができました。

このことの意味は小さくありません。

ずっと後になって、ヤコブとエサウは和解をします。

これは、イサクが複雑な思いの中にありながら

リベカとヤコブの策略を超えて、主の存在を認めることが

できたからではないでしょうか?

28章で、イサクはヤコブの顔を見つめがら

祝福の祈りをします。さらにヤコブの結婚についても

指示を与え、主の民から妻を得るように教えます。

イサクが本当に悔い改めへと導かれた姿がここに

見ることができます。

「もう手遅れだ。今さら意味がない。

もっと早く行動していれば、あんなことをしなければ・・・」

人生にはいろんな後悔がついて回ります。

「もっと早く教会にくればよかった。

現役のときに聖書の教えを知っていれば。」

そうおっしゃる方が多くおられます。

でも、私たちがイエス様に目を向けたときに

手遅れということはないのです。

イエス様とともに十字架につけられた罪人が

十字架の上で悔い改めしたときに

イエス様は彼に

「あなたは私と共に今日パラダイスにいます」

とおしゃって下さった。

だから、パウロは

「今は恵みの時、今は救いの日です。」

といったのです。

ターミナルケアという言葉があります。

終末期の医療をさすことばですが、本来のターミナルケアというのは

この世からあの世に、生きている人が死後の世界に

という意味ではなく

死から命に乗り換える、死の絶望が永遠の命の望みに

乗り換える。この世の命から、天の命に乗り換える。

そういう神様が備えて下さった望みに乗り換えるためのケア

が必要となるのです。

もう遅いと思えるタイミングでイサクは悔い改めた。

その悔い改めは望みに繋がった。そのことを覚えたいのです。

若かろうが年を取っていようが

「もう遅い」と考えることは簡単なのです。

そしてそういう風に言い訳をして

私たちは与えられている今、恵みのときであり

救いの日である今を、可能性を失った、もう遅い「今」に

変えてしまう。

自分の過ちが示されたときに、最晩年のイサクがそれを受け止め

方向転換していった信仰。

そこに希望が生じた。問題の糸口が生じた。

まだ遅くなかったのです。

最後の一歩で踏みとどまるならば

主はまたそこから新しい道を備えて下さる。

信じて歩みたいと思います。


大事なことは、いつも聖書とロックが教えてくれた。


ラヴ&ピースKeep on Rock’n


今日も楽しく、誇りをもって行こう!

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