「主の山に備えあり」創世記22章1~24 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

おはようございます。伊東市・中小企業元気アドバイザー、

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をまとめたものです。

■「主の山に備えあり」創世記22章1~24

川奈聖書教会火曜礼拝では、

アブラムの生涯を中心に創世記を学んでいます。

「イサク奉献」の二回目、前回は神様からの預かったイサクを

お返しすることで、イサクに真の命が宿ることを学びました。

今晩は「いけにえ」という視点を中心に学びます。

1.いけにえの意味

いけにえの規定が細かく定められるのはモーセの時代になってから

でありますが、アブラハムの時代においても

人々は慣習的に神様にいけにえを捧げることを知っていました。

何のためにいけにえを捧げたのか?

それは神様への感謝、自分の罪の贖いのためです。

神様は、人間からいけにえを捧げられても

それを食べられるわけでもありませんし、神様が実際に

得をするわけでもありません。

人間が誰かに捧げものをするときは、いくらかでも

相手の益になります。

しかし、神様に対するいけにえは全く異質のものです。

神様にどんなに素晴らしいものを捧げても

それはもともと、神様のものですし、神様はそれらのものを

もらう必要がないお方です。

ですから、人間が神様にいけにえを捧げ

「神様に恩返しができた」とか「償いができた」とか」

と考えるのは間違っています。

それでも、いけにえを捧げるのは

ただ神様に感謝したい、神様に対する罪を贖いたい

そのように願う真心の表明なのです。

ダビデは歌いました。

詩編51:16~17
たとい私がささげても、まことに、

あなたはいけにえを喜ばれません。

全焼のいけにえを、望まれません。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。

砕かれた、悔いた心。神よ。

あなたは、それをさげすまれません。


何を捧げたのかは問題ではありません。

神様がそこで見ておられるのは、捧げた者の思いです。

どれだけ砕かれた、悔いた心によって捧げたのか?

神様はその部分を見ておられるのです。

聖書中、最初の神様への捧げものの記事は

創世記四章のカインとアベルです。

二人とも神様に捧げものをもってきますが

神様はアベルの捧げた物だけを喜び

カインの持ってきた物を喜びませんでした。

真心から捧げたものを主は喜ばれたのです。

私たちの持つ最も大切なものをもって主のお恵みに感謝する。

22:12
御使いは仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。

その子に何もしてはならない。

今、わたしは、あなたが神を恐れる事がよくわかった。

あなたは、自分の子、

自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」


一人子さえ惜しまないで捧げようとしたアブラハムの思いを

喜んでおられた。


2.希望に生きる

最上のものを下さったのは神様

私たち人間は、その与えられたものが素晴らしければ

素晴らしいほど手放したくない、自分の手元に

保っていたいと願うものです。

それを取り上げられそうになって苦しむと

「こんな思いをするのなら、

神様は最初から下さらなければ良いのに」

とさえ思う。

それはまた、私たち人間の人生についても

いえることかもしれません。

人間は必ず死ななければならない。

人間は生まれたときから

一歩、一歩死に向かって歩いている。

この世に生を受け、生きることができることは素晴らしい特権

ではありますが、それと同時に生まれた者は皆死という

とてつもなく大きなテーマに向かい合わなくてはならない。

生まれらからこそ死ぬ。そんな事なら生まれない方がよかった。

生まれなければ死ななくて済んだともいえるかもしれません。

ペシズム(悲観論)の思想家ショーペンハウエルの言葉

「この世界は考え得る世界で一番悪い世であるゆえ

人間にとって一番いいことは、生まれてこなかったこと。

その次にいいことは早く死ぬこと。一番悪いのは

長生きすることである」



自分に命が与えられていることを

否定的にしかとらえることができない。

しかし、これは私たちが自分の命を突き詰めて考えたときに

生ずるある種の必然性をもった思想ともいえるかもしれません。

アブラハムは「イサクを捧げよ」という主の御命令を聞いたときに

「こんなことなら、イサクが与えられない方がよかった」

と思ったのか?

アブラハムの心は決してこのように否定的ではありませんでした。

22:5後半
私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、

あなたがたのところに戻ってくる。」といった。


22:8

「イサク。神ご自身が全勝のいけにえの羊を備えて下さるのだ。」


これらの言葉には、絶望的な状況の中で、依然としてアブラハムが

持ち続けている希望を表しています。

イサクを捧げる決心をしても主にある希望に生きようと

するアブラハムの姿がそこにあります。


神に信頼する者は、失望することがないのです。

言い換えれば、主に信頼することは希望に繋がるということ。

ヘブル書11:9
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、

と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです」


たとえイサクが死んでも、主はイサクをよみがえらせて下さる。

主がイサクをよみがえらせて下さるという信仰にあったから

アブラハムは「私と子供は戻ってくる」

という事ができた。


「どうせ死ぬのだから、何をしたっていいじゃないか

面白おかしく生きた方が勝ち」

あまりに否定的な人生。

人間のおかれた状況は正にこのようなものであるかもしれない。

しかし、そのような私たちが、神様への信頼を持つときに

絶望的な人生の中に希望が生まれてくると聖書は教えています。

主に信頼するときにこそ希望が生まれます。






3.何を握りしめるのか?


子供が小さいとき、彼らの接する世界があまりに大きく

急激に広がっていくため、不安や恐れを日々感じています。

そんなとき、親がそこにいてくれれば

乗り越えることができる。

だから、常に親と繋がっている、それが子どもたちの望みなのです。

私たちの命も同じではないでしょうか?

人生というのは何歳になっても初めての連続です。

何十年生きても老いるのは初めて

どんな豊かな経験を積んでも、皆、初めて

死と向き合わなければならない。

そうしたときに、普段は何の不安もない、

自分の力で人生は切り開けると我が物顔で生きている人間も

不安や恐れに泣きじゃくる子供と変わりません。

そこで人間はどうするのか?

何かに頼るのです。

何に頼るのか?

自分が大切にしてきた、一番近くにあって

頼りにしてきたものの手を握りしめる。

それがお金であったり、権力であったり、地位や立場であったり

名誉であったりする。

でも、いくら握りしめても何の解決にもならない。

アブラハムは人生最大の危機の中で、神様の手を握りしめ

神様にしがみつき、自分の道が神様と共に進んできた道

であることに望みを抱いたのです。

散々好き勝手に自己中心に欲望のまま生きてきて

困難に直面したときに神様に望みを抱くことはできません。

神様はどんなときでも助けを求めてならば

手を差し伸べて下さるお方です。

でも、私たちの方が、神様の御手に

安心することができないのです。

子供はいつも親と一緒にいるから、不安の中でも

親の手に安心できるのです。

私たちも同じです。

こうして毎週、礼拝を守り、

御言葉を握りしめ神様と共に歩んできた。

神様と共に歩んできて今の私がある。

このことの安心感。

今もいろいろ起こる。この先もいろいろ起こる。

でもこの道は自分勝手に進んだものではない。

アブラハムが神様の言葉によって導かれたように

私たちも、今神様によってこの場所にあり、

この出来事に直面している。だから大丈夫なんだ。

その安心感は理屈ではなく、信仰による平安です。

神様に従って生きることが幸いなのです。

4.イエス様の十字架

御使いは仰せられた。

22:12
「あなたの手を、その子に下してはならない。

その子に何もしてはならない。

今、わたしは、あなたが神を恐れる事がよくわかった。

あなたは、自分の子、

自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた。」


この御使いは神様の御臨在を現す特別な存在、神様ご自身です。

神様ご自身が天から下ってきて、アブラハムの手を止めて

下さった。

「あなたは確かに捧げた」と認めて下さり

イサクの代わりに1頭の雄羊を与えて下さったのです。

この箇所はイエス様の十字架を旧約聖書中、最もはっきり指し

示している箇所です。

「あなたの子、あなたの愛する一人子」と呼ばれるイサク

これは「あなたは私の愛する子」と神様から呼びかかられた

イエス様に通じ、また

ヨハネ3:16
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。

それは御子を信じる者が一人として滅びることなく

永遠の命を持つためである。」

に繋がってまいります。

2千年後、神様はご自身のひとり子イエス・キリストを

私たちの罪の贖いのために十字架でいけにえにされたのです。

つまり、アブラハムの刀を振り下ろそうとしたときに

「もうそれで十分だ、あなたはイサクを捧げた。

あとは私がそれをしよう。私があなたたちのいけにえとなろう」

ひとり子キリストの十字架を見据え上がら

主はアブラハムの腕を掴んで下さったのです。

神様は愛するキリストの十字架を見据えながら本気になって

私たち人間の救いを思ってアブラハムを導き

アブラハムの腕を掴まれたのです。

わたしたちが恐れの中でつかむことが許されている

父なる神の御腕とはこのようなものです。

信頼して、主が導かれる道をまっすぐに歩んでいきたい。

試練があり、戦いがある私たちの人生、でもこの御腕が

導いて下さる道を進んでいきたい。


大事なことは、いつも聖書とロックが教えてくれた。


ラヴ&ピースKeep on Rock’n


今日も楽しく、誇りをもって行こう!