もし身近な人がいつもと違う様子になったら?
もし1番近くにいる人が動けなくなったら?
もしかしたら一人で悩んでる人もたくさんいるかもしれないなぁと思い、誰かのためになるのならばと、少し書いてみることにしました。
⚠これは2年ほど前に我が家に起こった出来事です⚠
当時コロナワクチンが出始め、我が家は予約を必死に取り夫婦で投与。
旦那さんはその日はワクチン接種日。
その日はなんとも無かったのですが、翌日…
布団から出ることが出来なくなりました。
旦那さんは朝がとにかく弱い。
いつも家族の誰よりも遅く起きてくる。
その日もいつものように起きなかったので、声をかけて私は2人の娘を保育園に送り、仕事に行きました。
ワクチンの副反応だと思っていました。
職場が同じ私達は、旦那さんの上司の内線で欠勤したことを知りました。
なんとも言ってなかったけどなぁと思いながら、コロナワクチンを打ったからかなと話をしながらその日は終えました。
その日から旦那さんは布団から立ち上がることもできなくなりました。
水を飲んでる形跡もない、ご飯はもちろん、トイレにも行っている気がしない。
2日、3日たち、表情がみるみる変わってしまう旦那さんを見るのが怖くなり始めました。
今にも自死してしまいそうな感じに嫌な予感がしたので、急遽在宅に変えてもらい、様子を見たり、たまには保育園を休ませたりと旦那さんから目が離せなくなります。
しかしこんなことを続けるのも限界があり、普段通りの生活を続けるしかありません。
娘たちと家に帰ると旦那さんがいなくなっていました。
その時ものすごい嫌な予感がしました。
電話をしても家で携帯が鳴り響き、夜まで帰ってきませんでした。
ガチャッとドアの鍵の音がしたとき。。
娘たちととても安堵したその時のことを、私はまだ覚えています。
当時私は、第三子がお腹に宿っていました。
相変わらずつわりも酷く、ご飯も全く入りませんでした。
それでも食べられるものは食べてねと病院でお話をされていたので、汁物でしのいでいました。
旦那さんや娘たちの心配で自分の体が二の次、三の次になり、どんどん体調が悪くなっていきました。
それでも動けない旦那さんのかわりに娘たちを保育園に送らないといけない。
そうこうしているあいだに、体重減少に気が付きます。
病院で指摘されてしまい、点滴を打つことになりました。
しかし、尿に異常が出たのをきっかけに、すぐに検査を切り替えることになり、そこで妊娠糖尿病と診察されてしまいました。
ものすごく気持ちが悪いんですね、船酔いみたいな気分が毎日続きました。
あれよあれよと、毎日血糖値を測ることになり、更にはインスリンまで打つことになりました。
更に気持ち悪さが増し、抗がん剤を打ったときのことを思い出しました。
旦那さんと娘たちの面倒を見ることはもうとっくに限界。
このままでは全員倒れてしまう、赤ちゃんまで死なせてしまうと思い、早めに義父母と実母に相談し、1度旦那さんを実家に帰してゆっくりすることになりました。
会社では毎日のように旦那さんの上司からどんな様子か聞かれ、このままでは有給も無くなるし会社としてもどう扱えばいいのかわからないということで病院に連れ出すことになりましたが。。
なかなか行ってくれません。
それはそうですよね、布団からも立ち上がれないのに病院なんて無理な話です。
でも、このままでは無休になり、診断書がないと傷病手当も出せないとのお話もありました。
物凄く理解しています。
私も一年、傷病手当にはお世話になりました。
私の給与だけでは家計も。。
回るはずもない。
幸い社宅だったので、一先ず私の給与から社宅の金額を引くかとの話まで出ていました。
なかなかナイーブなお話です
そうこうしてるうちに、私は高血圧になってしまい、妊娠糖尿病とダブルで切迫にもなってしまいました。
もうここでお手上げ状態。
入院の話まででました。
こんな状態で娘二人を家においておけるはずもなく。。
私は途方に暮れました。
金銭面も、自分の体のことも娘たちのことも。。
一旦実家に帰るはずの旦那さんは子どもたちも連れて行くと言うことを聞かず、急遽帰ることになりました。
駅で見送る父と娘たちの姿を見ると、
どうしてこうなってんだろう。
何か対策はあったんだろうか。
娘たちの不安そうな顔や泣き顔。
苦しくて仕方がありませんでした。
見送って会社に行く途中、とめどなく流れてくる涙はどうしようもありませんでした。
どうしても仕事の引き継ぎもあり、しっかり整えて5日後に早めの夏休みを利用し、家族を追いかけることにしました。
子どもたちも普段の生活があります。
家にいても余計な心配をするだけなので、これ以上は不安にさせたくない思いもあり、通常の生活に戻したかったのです。
旦那さんだけゆっくりしてもらうべく、娘たちを連れて都内に戻ることにしました。
娘のダメージ(長女)は、相当でした。
些細なことにも気づく神経質なタイプ。
言葉数も少なくなり、笑うことがなくなりました。
それはそうよね、お母さんやお父さんが普段とは違うんですもの。
それはそれはとても心配です。
お父さんはずっと働かないの?
お父さんはどうなるの?
お母さんは入院しちゃうの?
入院したら私達はどうなってしまうの?
山程の心配で押しつぶされている長女。
物凄く申し訳ないことをしてしまいました。
保育園の先生達に助けられ、普段通りの生活に戻してよかったと数日間ホッとしていると、旦那さんはすぐに都内に戻ってきてしまいました。。
きっとほっておけない、またはしっかりしなきゃと思ったのかもしれない。。
私達が苦しんだように、本人もとても苦しかったとおもいます。
遂に安静指示が出て、保育園にも連れていけなくなってしまいました。
病院と掛け合い、親子で入院する方法もありましたが、コロナで満床。
個室が難しく家での安静となり、子どもたちは保育園に送り、日中は横になって過ごすといいねとおはなしをされました。
自宅で安静。それがまた難しいんですよ。
洗濯物、茶碗洗い、買い物。
なかなかゆっくりできない。
会社とのやり取りをしながら、やっとこさ、旦那さんが病院を探して、二人で心療内科に行くことができました
あの日のことも私は忘れられないでいます。
診察室に向う背中を見て、ホッとし今まで人前で泣いてはいけないと我慢していた涙が全く止まらず、受付の方に背中を擦ってもらいました。
診察室から出た旦那さんはホッとしたような顔をしてご飯が食べたいとお話をしていました。
二人してだいぶ痩せてしまい、あのときは食事も喉を通らず、日々生きることに必死でした。
帰り道の親子丼、無言で食べた親子丼はずっと忘れないでいます。
無事会社に診断書を送り、傷病手当の手続きをしてもらい、一先ず金銭面の心配は半分になりました。
夫婦で傷病手当、そして社宅に住むというとんでもない形になりました。
日本各地探してもどこにもいないんじゃないかなと当時は思っていましたが、アメブロを見るとたくさんいますね。
どうすることもできず、鬱になってしまった旦那さんを見守りながら数年、数十年経過し、奥さんが一人で働き続けている家庭。
離婚した夫婦。
離婚はしても一緒に住んでいる夫婦。
本当に様々な形の夫婦がいました。
治った人はいるのかな?
どうすればまた元に戻るかな?
そんなことばかりを考えていました。