ヨハネ福音書19章では、イエスが十字架刑になります。

ロンギヌスの槍でわき腹をさされて、血と水が吹き出ます。

 

その後、隠れキリシタンだった

アリマタヤのヨセフと、ニコデモが、

イエスの遺体をひきとって埋葬します。

(ヨハネ福音書 19:38-42)

 

イエスの埋葬については、

以前に書いたので今回は省略します。

 

 

イエスの遺体を葬るシーン。

 

アラビア語の「遺体/جثمان」の名詞構造が、

よくできてるなあと見惚れてしまいました。

 

アラビア語の「遺体/جثمان」は、

「居る/جثم」の双数形。

 

つまり、同じ語根「جثم」が、

 

単数(1つ)だと、「居る、座る、泊まる」という生者の静止状態をさす。

 

双数(2つ)だと、「死体、遺体」という死者になる。

 

 

日本語の「いる/居る」と「いつき/居つき」の違いに似てるかな。

 

武道では、「居付きを嫌う」という表現があるそうです。

 

どっしり構えて、身体が安定してるのはOK。

しかし緊張や油断で、動きが止まって居付くのはNG。

身体が居付くと、真剣勝負に対応できなくて死ぬ。

 

居付きを嫌うのは、

身体だけでなく、心も同じですね。

 

私は武道家じゃないから、

もっぱら精神面のことを考えます。

 

心が「そこに居る」のはいいが、

「そこに固着して居付く、居座る」なら、心は死んでいます。

 

それがアラビア語では、「居る×2倍 → 死体」

という発想になるのだと思います。

 

たとえば、今まで通りのやり方に執着する人は、

心が過去に居付いています。

 

ずっとこのままでいい、

変化も改善もチャレンジもお断りという

お山の大将みたいな生き方は、

棺桶で永眠してるのと何が違うのでしょうか。

 

将来計画への執着、

人間関係への執着、

理想や成功への執着……

 

何かに執着してしまった時点で、

心はもう死んでいるんですね。

 

何かを大切にするのは良いことです。

しかしそこに居付いてしまわないよう、注意がいりますね。

心のフットワークはいつも軽くありたい。

 

 

「主の祈り」の冒頭で言いますね。

 

天に まします われらの父よ

 

全能の神は、天にいる。

しかし天にまします神は、同時に地にもいます。

宇宙の果てにもいます。

私たちの内にも外にもいます。

昔いまし、今いまし、永遠にいます神です。


「天にまします神」は、

生きておられるゆえ、

「天に居付く神」ではありません。

 

もし「天にまします神」が、「天に居付きます神」

つまり「天から一歩も出ない神」ならば、

それは神ではなくて、天の地縛霊。

生ける神ではなく、死んでる神……死体ということになる。

 

特定の場所に居付く霊は「地縛霊」。

特定のモノに居付く霊は「付喪神/つくもがみ」。

 

どちらも、一つの状態に居付いてしまっているから、

そんなものは神ではないですね。

死んでいますね。

 

イエスを救い主キリストだと信じる人は、

イエスの死体を信じて、死体にすがってるんじゃないでしょ。

死から復活して、いま生きておられるイエスを信じてますよね。

 

だから宗教行事、儀式などをするのはいいけど、

特定の様式にこだわってしまうと、神を見失いますね。

イエス・キリストは特定の日時、場所、作法に居付く神ではないから。


いまのコロナ禍みたいに、イレギュラーなことがあれば、

宗教行事のやり方も柔軟に変えていけばいいはずです。

 

いま生きておられる神は、

特定の様式に居付く神ではないです。

まして死体のように硬直した様式の中にはおられないでしょう。

 


 

「いつく」は「斎く」と書けば、

「神に仕える、神を祀る」という意味になります。

 

使徒パウロがところどころで言っています。

 

 わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
 生きているのは、もはやわたしではありません。

 キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 

 わたしが今、肉において生きているのは、

 わたしを愛し、わたしのために身を献げられた

 神の子に対する信仰によるものです。

 

 ――新約聖書 『ガラテヤの信徒への手紙』 2章19、20節

 

キリストの十字架による自我の轢殺ガー!

とかいう神学はもってこないでください。

 

ようするに、

「イエス・キリストを信じた私は、

 十字架で死んだイエスに居付き(死に)、

 今は復活したイエスに斎いて(仕えて)います」。

 

私の自我がキリストに居付いて、

キリストといっしょに十字架上で死んだ。

 

キリストに居付いているゆえに、

キリストの復活と共に、私も復活した。

 

今はわたしの内に復活の主キリストが生きている。

それゆえ、私はキリストに仕える=斎くことができる。

 

頭で考えるとややこしいけれど。

そうとしか言いようがないなあと思います。

 

霊的な生死について、イエスが語った言葉。

 

 自分の命を救いたいと思う者は、

 それを失うが、

 わたしのために命を失う者は、

 それを救うのである。

 

 人は、たとえ全世界を手に入れても、

 自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

 

 ――新約聖書 『ルカによる福音書』 9章24、25節

 

自分の命に執着する

 → 自分のエゴへの居付き → 死

 

神と無関係のことで命を失う

 → 自己満足への居付き → 死

 

イエス・キリストのために命を失う

 → キリストへの居付き

 → キリストと共に死んで復活する

 

イエスの言葉は、「いつき/居付き」という観点からも、

正しい真理だなあと思います。

 

イエス・キリストは、いま生きておられるから、

どこにでも居るが、どこにも居付かない御方です。

 

今日も明日も、

復活の主イエス・キリストにいつきまつらん。

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 

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