【今回のもくじ】

 

・ 治らなくてもいいのかもしれない
・ 神とのギャンブル … オールオアナッシング
・ 持病をかかえながら伝道の旅をしたパウロ
・ 持病がとりもつ神縁
・ 健康でなくても神の御用はできる

 

■ 治らなくてもいいのかもしれない

 

先々週に風邪をひいて、まだ少ししんどいけれど、

生活に支障ないレベルには回復できたから感謝。

 

私の昔からの悩みは、身体が弱いこと。

 

どうにかして、平均的な人と同じだけの丈夫さを得たくて、

健康情報をあさり、スピリチュアルワーク・セラピーをほじくりまわり、

あれこれ健康になるための努力で疲れ果ててしまった。

 

 助言が多すぎて、お前は弱ってしまった……

 

 ――旧約聖書 『イザヤ書』 47章13節

 

主よ、その通りです。

情報の迷路をウロウロし続けて、私はすっかり弱ってしまった。

 

だから、今回、風邪で寝込みながら思った。

健康になるための努力は、もう本気でやめようって。

何度かそう決心してきたけど、今度こそもう本気でやめる。

 

日本で標準的だとされる人生プランを実現したければ、健康でなければならない。

 

1日8時間 × 週5日以上 の勤務をこなせる身体がいる。

私にはそれができない。

 

でも、神様が、私の知らない別プランをもっているなら、

私が望んでいる健康体でなくても、それはそれで生きていけるはず。

 

 人の心には多くの計画がある。

 しかし主の御旨のみが実現する。

 

 ――旧約聖書 『箴言』 19章21節

 

■ 神とのギャンブル … オールオアナッシング

 

ようするに、私が健康に執着していたのは、

 

「自分のことは自分で何とかするしかない」

 

「神様の存在は信じているが、助けてくれるかどうかはアテにならない」

 

という信念をベースに生きていたからなんだよね。

自力本願系というか。

 

でも、私がルーン魔女活動をやめるべきだと確信させられた、

ペオース(パース)というルーン文字は、

 

「人間レベルのコントロールを手放して、神に委ねろ」

「人間的な計画・力をすべて放棄して、神にすべてを賭けろ

 

という完全他力本願のルーンなのだ。

   (参考) その日時は誰も知らない … エゴの世界が崩壊する日/私がルーン魔女活動をやめた理由

 

私が神に叩かれたときのルーン配置は、

マニアックすぎるから説明しようがないけど、

とにかく、そんなルーン配置は狙って出せるもんじゃない。

明らかに神の手が私のルーンに介入して、

ペオース(パース)を急所に差してきたという配置だった。

それも一回じゃない。

何度も。

 

ペオース(パース)は、ギャンブルのルーンでもある。

 

ルーン魔女活動をやめる = 収入がゼロになる。

 

これだけでも、私にとっては人生を賭けた一大ギャンブルだった。

だから、ルーン魔女活動をやめれば、すぐに次の展開があると期待してた。

 

しかし神様から見れば、私はまだまだ、神に賭けきれていないらしい。

 

ルーン魔女活動をやめる際に、私はこう思った。

そっちの収入がゼロになるなら、別の仕事で収入を得なくちゃいけない。

そのためには、働けるだけの健康体がなければと。

 

なのに、健康体が得られないから、まったく先に進めていない。

 

健康体への執着も、自分で働いて収入を得るプランも手放して、

とにかくすべてを神に賭けなくちゃいけないんだな。

 

私がやっていることは、マイプランA(ルーン占い師)から、

マイプランB(ふつうに働く)に変更したってだけで。

私のマイプランをベースにする生き方自体は、何も変わっていない。

相変わらず、神様は蚊帳の外……

 

先々週からの流れで、やっとそのように確信できて、すっきりした。

 

神がすべて賭けろと言えば、すべて賭けるしかないのだ。

一部ではダメ。

大半とか、八割方を賭けるというのもダメ。

私のマイプランをすべて破棄しないと始まらない。

 

神のプランと、私のマイプラン(自己実現)。

両立はしないのだ。

 

 だれも、二人の主人に仕えることはできない。
 一方を憎んで他方を愛するか、
 一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
 
  ――新約聖書 『マタイによる福音書』 6章24節

 

極端すぎると思われるかもしれない。

 

でも、私との関係において、神はいつも単刀直入に、必要な事だけを言う。

 

神がすべてと言えば、すべてなのだ。

「すべて」以外は、どれも違う。

 

きっと、私がすべてを神に賭けるまでは、神様は次の道を開いてくれない。

それでいい。

そういう神様だから、私は安心して信じられる。

 

神の峻厳は、私にとっては癒しだ。 (※こういう感性には個人差があります)。

 (参考) 清濁あわせ呑まないキリスト … divine(神聖)にはdivide(分離)が伴う。

 

神にすべてを賭けろと言っておきながら、

「仕方ないなあ……それなら9割でいいよ」

などと条件を緩めてくるような神は信用できない、1円も賭けたくない。

 

それに、神様は厳しいとはいえ、理不尽なことは一切要求しない。

神はブラック組織の運営者ではないのだから。

生活を維持できる最低限の健康と兵糧+αは与えてくれている。

この匙加減のギリギリ具合が、あざとい。

 

あともうちょっとのところまで来ているような気配はあるから、

ひきつづき、神にすべてを賭けるというギャンブルは続行。

 

あとは私の勇気の問題だ。

 

私の健康がどうなるかも、すべて神に任せる。

今は、神にすべてを賭けるプロセスを体験するための時なんだろうと思う。

 

■ 持病をかかえながら伝道の旅をしたパウロ

 

何かの持病、慢性病、難儀な体質などで悩んでいる人には、

イエス(キリスト)の奇跡治療エピソードだけでなく、

使徒パウロの「神に持病を与えられた」エピソードもぜひ知っておいてほしいと思う。

 

心身の不調は必ずしも、「治すべきもの」とは限らない。

しかもその不調は当人だけのものでもなく、

周囲の人の使命にも関わっている場合がある。

 

パウロは、キリストの福音をギリシア・ローマ地域に伝え、

キリスト教会、キリスト教神学の基礎を作った人。

 

新約聖書の『○○人への手紙』という手紙シリーズの著者はパウロだ。

パウロの手紙シリーズをまとめて「パウロ書簡」という。

 

パウロ書簡によれば、パウロは各地で精力的に伝道し、

迫害にもめげないパワフルな人……という印象だけれど。

 

実はパウロは持病をかかえていたという記録が残っている。

『コリント人への第二の手紙』で、パウロは持病を「とげ」と表現している。

 

 ……わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、

 わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、

 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

 

 それで、そのために思い上がることのないようにと、

 わたしの身に一つのとげが与えられました。

 それは、思い上がらないように、

 わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 

 

 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 

 

 すると主は、

 「わたしの恵みはあなたに十分である。

 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

 と言われました。

 

 だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、

 むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 

 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、

 そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。

 なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 

 ――新約聖書 『コリント人への第二の手紙』 12章6-10節

 

パウロのいう「とげ」がどういう症状だったのかは不明。

しかし「とげ」と表現しているからには、何か痛み、

それも継続的な疼痛のある持病なのかと想像できる。

 

持病を「サタンから送られた使い」とまで言っているから、

本当にうっとうしい痛み&症状だったのだろうね。

 

でも、神に祈っても、神はあえてそれを取り除かなかった。

パウロは神の「ノー」という返事を受け入れて、

パウロが思い上がらないための「とげ」だと理解したようだ。

 

たしかにパウロ書簡からイメージできる彼の性格からすれば、

もしパウロが元気ピンピンだったなら、

彼は自分の熱意のままに突っ走ったキリスト伝道をして、

早々に迫害されて殺されていたという気がする。

どんなに熱心で有能でも、早死にしてしまったら、神様の御用を果たせない。

 

きっとパウロの持病は、

彼が熱心すぎて早死にするのを防ぐための「とげ」だった。

パウロという大馬力エンジンを制御するには、

「とげ」が必要だったのだろう。

 

パウロの持病は、敵と味方の区別をわかりやすくするフィルターでもあった。

パウロは反対勢力からこんな悪口を言われていたようだ。

 

 わたしのことを、

 「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」

 と言う者たちがいるからです。

 

 ――『コリント人への第二の手紙』 10章10節

 

実際に会ってみると弱々しい人……

やはりパウロがパワフルな健康状態でなかったのはたしかだろう。

 

パウロをあたたかく迎えてくれる味方もいた。

ガラテヤという町の信徒に宛てた手紙にこう記している。

 

 知ってのとおり、この前わたしは、

 体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました

 

 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、

 さげすんだり、忌み嫌ったりせず、

 かえって、わたしを神の使いであるかのように、

 また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。

 

 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。

 あなたがたのために証言しますが、

 あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。

 

  ――『ガラテヤ人への手紙』 4章13-15節

 

パウロの目が悪かったというのは事実とみてよいようだ。

パウロが回心するきっかけとなった目からウロコ事件(使徒行伝9章)以降、

目に障害が残ったのではないかという説がある。

だからガラテヤの人は「自分の目をえぐりだしてもパウロに与えようとした」のだと。

 

けれども私は、パウロの「とげ」という表現から察するに、

目以外にも、痛みを伴う持病があったのだろうと思う。

 

そしてパウロの持病は、パウロ本人にだけ影響したのではなく、

ギリシア人の医者ルカを世界史に巻き込むきっかけだったと、私は思っている。

 

■ 持病がとりもつ神縁

 

新約聖書の『ルカによる福音書』とその続編『使徒行伝(使徒言行録)』は、

ギリシア人の医者ルカが記した私文書だ。

2書とも、テオフィロ閣下なる人物に宛てて、ルカがまとめた報告書。

 

もしこの2書がなかったなら……たぶん新約聖書もキリスト教も成立しない。

使徒行伝がなければ、パウロ書簡の価値は半減する。

そうなれば、キリスト教の中身も貧相で、ローマ帝国の国教にはなりえなかったろうし、

ひいては世界史の内容すらもだいぶ違ったものになっていたと思う。

 

医者ルカという超重要人物は、パウロの伝道旅行に同行している。

ルカは最後までパウロの善き理解者で、信仰の友だった。

だからこそ、ルカ福音書と使徒行伝を記すこともできたのだろう。

とくに使徒行伝は、ルカ自身の体験回想録という側面もある。

当事者でなければ書けない内容だ。

 

医者ルカとパウロのなれそめは不明。

ルカがパウロに同行するようになった経緯も不明。

だから以下は、私の勝手な想像になってしまうのだけれど……

 

きっとギリシャ人ルカは、パウロからキリストの福音を聞いた。

そして福音を受け入れただけでなく、医者としてパウロの持病を診たのだと思う。

 

当時のギリシャ医学は世界最高レベル。

ルカはシャーマニックな医療ではなく、いわゆる西洋医学の目でパウロを診て、

パウロが伝道旅行を続けるには持病の継続的ケアが必要だと判断し、

そこにルカの使命を感じたのではないかと思う。

 

ルカは医者として、パウロに同行&持病ケアすることで、

パウロたちの伝道がより多くの実を結ぶと考えた。

というか、たぶんそういう神の声を聞いた。

 

もしパウロに持病がなければ、つまり健康不安がなければ、

ルカはパウロの伝道旅行に同行しなかったと思う。

今も昔も、医者はたいへん貴重な存在だから。

ルカは良きクリスチャンのお医者さんとして、ギリシャで医者人生をまっとうしただろう。

そしてルカは福音を受けいれた一ギリシャ人として歴史に埋もれて終わっただろう。

 

でも、きっとパウロの持病が、ルカを伝道旅行~世界史に引き込んだ。

ルカがパウロに同行しなければ、ルカ福音書も使徒行伝も書かれなかった。

 

神がパウロに与えた持病は、パウロ本人の学びや諌めのためだけでなく、

ルカが2書を記す使命をまっとうするためにも必須のものだったと思える。

むしろルカとパウロをつなげるのがいちばんの目的だったかもしれない。

 

パウロの持病は、ルカとの神縁をつなぎ、

後のキリスト教と世界史にまで影響を与えることになる、栄誉ある持病だった。

 

当時のパウロは、さすがにそこまでは見通せていなかったと思うけど。

ルカ自身も、純粋に医者としての使命を果たしたかっただけだろうし。

ルカ福音書と使徒行伝はその副産物みたいなものだ。

神にとっては、その副産物が本命だったと思える。

 

パウロ本人にとってはうっとうしい「とげ」でしかなかった持病が、

神からのギフトだったのは間違いない。

 

■ 健康でなくても神の御用はできる

 

パウロは、ルカのケアのおかげもあってか、

持病をかかえつつも、過酷な伝道旅行を続けることができた。

パウロ自身が武勇伝を語っている。

 

 ……苦労したことはずっと多く、
 投獄されたこともずっと多く、
 鞭打たれたことは比較できないほど多く、
 死ぬような目に遭ったことも度々でした。
 
 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
 鞭で打たれたことが三度、
 石を投げつけられたことが一度、
 難船したことが三度。
 一昼夜海上に漂ったこともありました。
 しばしば旅をし、
 川の難、
 盗賊の難、
 同胞からの難、
 異邦人からの難、
 町での難、
 荒れ野での難、
 海上の難、
 偽の兄弟たちからの難に遭い、
 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、
 飢え渇き、しばしば食べずにおり、
 寒さに凍え、裸でいたこともありました。
 このほかにもまだあるが、
 その上に、日々わたしに迫るやっかい事、
 あらゆる教会についての心配事があります。 
 
 ――『コリント人への第二の手紙』 11章23-28節
 
これだけを読むと、パウロは不死身のサイボーグみたいに思えるけど(笑)
うっとうしい持病をかかえた状態で、これだからね。
パウロはすべてを神に賭けた人だったから、
何度死にかけても、天寿の時が来るまでは、パウロは伝道旅行を続けられていた。

医者ルカも、これらの難のいくつかをパウロと共に味わったはずだ。
実際、使徒行伝の終盤では、船が難破して海を漂流するというトラブルに遭っている。
でも無事に助かっている……だから使徒行伝を書けた。

当時、神に恵まれている人は、平穏で健康で豊かな人生を歩むと思われていた。
現代でもそういう考え方は根強いし、私も数年前まではそう思っていた。

でも、聖書を読むと、そんなことは書いてないんだよね。
 
神の声を聞けた預言者は迫害されてばっかりで、落ち着く場所がなかった。
イエスは妬まれて十字架刑にされたし。
パウロは持病に悩み、迫害をうけながら生きてたし。
 
平穏も豊かさもなかった彼らには、神の恵みが無かったのか……まさか!

神の恵みが、どういう形で現れるかはわからない。
表面的な幸・不幸だけでは、神の恵みの質をはかることはできないのはたしかだ。

あの人の幸せと、この人の幸せは、中身が違う。
神の恵みも、人によって中身が違う。
持病の意味も、やっぱり人によって違う。

それが自分にとってどうなのかを知るには、本気で神に聞くしかない。
知る必要があることなら、今のその人に理解できる方法で、神は答えてくれる。

だから、持病であれ、その他のトラブルであれ、うっとうしいことがあるなら、
まずは本気で神に聞くところからだと思う。

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実話ベースの映画『ロレンツォのオイル』と、『小さな命が呼ぶとき』は、
どちらも難病の我が子を救いたい一心で、
医学ド素人の父親が治療法を発見するまでの物語。
 
重い病を背負っている人は、当人の前世や罰などではなく、
周りの人の使命に関わる重要な役割をもっているのだと思う。


 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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