■私の人生に失望したどん底ではない。

キリスト教の某教団の大きな集会に参加して、あまりのお粗末さに失望した時の話。

キリスト教団体への失望の底でキリストを知ったという、皮肉な恵みに感謝。
神の業は、往々にしてブラックユーモアにあふれている。

■まず、その集会に導かれたいきさつから。

ちょうど3年ほど前に拙著『旧約聖書と外典に学ぶ95のライフアドバイス』を書いた時点では、
私は新約聖書やイエスというものにあまり関わりたくなかった。
どうしても宗教臭がするから。

私はキリスト教が好きになれない。
ユダヤ教とイスラム教には何の抵抗もないのだが、キリスト教は鼻持ちならない。
イエスキリストの御名にかけて地球は平らだと誓わせるような集団だ。

現代のイスラム過激派が、その言動によってアッラーをおとしめる不信仰者であるように、
キリスト教もまた、歴代の偉い人の言動によってイエスと神を延々とおとしめているじゃないか。

個人単位でみるなら素晴らしい信徒もいるが、集団になるとロクなことをしない。

ただ、拙著のまえがきを書いているうちに、こう思うようになった。

旧約聖書を、特定の宗教からひきはがして、万人が読める一般書として扱うならば、
 新約聖書とイエスに対しても、そうするのが筋ではないか?

 新約聖書やイエスを、特定の宗教のものだからと敬遠するのは、損なことではないか?


たしかにその通りなのだ。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎しとばかりに、キリスト教の宗教制度が嫌いだからといって、
彼らが奉じているイエスと新約聖書までも拒否するのは、幼稚な感情的反応だ。

冷静に考えるならば、既存の宗教やその歴史が何をしていようと、今の私には関係ない

私と神との、一対一の関係において、イエスや新約聖書ともなじめばよいのではないか。

実際、百年前の日本で、内村鑑三という敬虔なキリスト者が、「無教会主義」を旗揚げしている。

私の立場も、無教会主義に近いと思う。

既存の宗教制度は、神と交わるための必須要件ではないという主義。
私もまったくその通りだと思う。
(その意味で、ユダヤ教とイスラム教の煩雑な戒律もやはり、余計なものだと思う)

一人ひとりが聖書の言葉を通してイエスキリストの本質と交わり、真の神を信じて生きよう。
そういう志を同じくする者で集まり、お互いに聖書を読み解き分かち合う場を定期的にもとう。
共に神に感謝と祈りを捧げよう、お互いに励まし助け合おう。
そういう集会が、教会の本質ではないかと思う。

無教会主義は、神を信じる者どうしの集会は否定しないし、むしろ推奨している。
神と交わるのを邪魔するような煩雑な教会制度は否定する。
人は神の僕であって、宗教制度の僕ではないのだと。

私は高校時代の倫理の授業で、無教会主義の考え方を聞いたときから、
これに魅かれるものがあった。

この際だから、私も無教会主義の発想を取り入れて、
イエスと新約聖書への抵抗感を手放そうと思った。

■それからいろいろあって、某プロテスタント系教団の大きな集会に参加する機会があった。
その集会は、「聖会」と呼ばれていて、数十年の伝統ある聖会なのだそうだ。

明治時代に日本にきた欧米の宣教師によってはじめられた、
きちんとした伝統のある教団の集会なので、不安はなかった。

きっと聖書についても、今の私ではまだ読み取れないような
深いことを聞けるかもしれないという期待もあった。

たしかに聖会講師のお話は、それなりに良かった。
感動のあまり落涙するというほどではなかったが、ふつうに良かったと思う。

ただ、その後がサイテーだった。

講師のいいお話を聴いて、会衆の気持ちがほどよく高揚しているところへ、
集会の実行委員とおぼしき人(たぶん教団付の牧師)が壇上に上がり、献金要請をはじめた。

入場無料だから、そのかわりに献金をお願いしますということ自体はぜんぜん構わない。

ところが、その献金要請の煽りかたが、うさんくさい催眠商法の手口と同じだったのだ。

ジャパネットタカタみたいなハイテンションで、壇上の先生は煽った。

なんて言ってたかな。
細かいことは忘れたけど、内容としてはこんな感じ。

・献金は、神様への捧げものです。
 神様はそれぞれの分に応じて力いっぱいなされた献金を喜ばれます。

・今回の大会の献金目標額が、まだ半分しか達成できていません。
 すでに100万円ほど献金をいただきましたが、まだあと100万円です。

・実行委員の中には、「今回の目標が達成できなかったとしても、
 それが神の御心として、皆さんの尊い献金に感謝しよう」
 という者もいましたが、私はまったくそうは思いません!

・数年前から進行中の大プロジェクトの資金がまだまだ不足しています。
 このプロジェクトは人の業によるのではなく、
 我らの主イエスキリストが先頭にお立ちになって導かれている神の国の業です。

・献金をすることで、神のご計画に貢献でき、実現の喜びにあずかることができます。

・しかし献金は強いられてするものではありません。

・事情があってあまり献金できない人は、
 隣の人のお財布から自分の分も出してくださるようにと祈りましょう。


アッハッハ!
これはなんとすばらしい、真実の福音。

イエスキリスト様。

この聖会では、カミの麗しさを語るよりも、カネの必要を語ることに熱心でございますな。
正直でよろしい。
この世の支配者(サタン)のもとにある我らは、カミよりもカネが大切です。
だから献金ヨロシク!

――ふざけんな。

隣人の財布が教団に捧げられるようにという祈りを推奨するのがこの聖会の目的なのか?
教会では、主イエスキリストに対して、そのような祈りを日夜捧げているのか?

壇上のおっさんのハイテンションに反比例して、私の心の温度はぐんぐん下がっていった。
あまりのショックと憤りで、せっかく聞いた聖書講師のいいお話が、
私の中から完全に吹き飛んで消えてしまった。

世界の終わりの日に何が起こるか、イエスがこう語っている個所がある。

 預言者ダニエルによって言われた”荒らす憎むべき者”が、
 聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
 そのとき、ユダにいる人々は山へ逃げよ……

 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 24章15-16節

ああ、イエス様。

私は、今たしかにあなたの預言が成就したのを見ています。

たしかに私の目には、聖会の檀上という「聖なる場所」に、
「荒らす憎むべき者(サタン)」が立っているように見えます。
私も山へ逃げましょうかねえ?

あなたがペテロ(岩)の上にたてたという教会は、
いまやサタン陣営の工作員に乗っ取られているのではありませんか?
もうこの教団も終わりが近いんですかね。

どうしてキリスト教が教会制度維持にこだわるのか、その理由と思しき個所の一つがこれ。
イエスの一番弟子ペテロ(本名シモン)が、イエスの本性を言い当てたときの会話。

 そこでイエスは彼らに言われた。
 「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」

 シモン・ペテロが答えて言った、
 「あなたこそ、生ける神の子キリスト(メシア)です」

 すると、イエスは彼にむかって言われた、
 「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。
 あなたにこの事をあらわしたのは、人間ではなく、天にいますわたしの父である。

 そこで、わたしもあなたに言う。

 あなたはペテロ(岩)である。

 そして、わたしはこの岩(ペテロ)の上にわたしの教会を建てよう。
 黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。
 そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、
 あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」

 ――『マタイによる福音書』 16章15-19節

ペテロは後に初代ローマ教皇になったそうだ。
(キリストは人名ではなく、メシアのギリシア語訳)

教会の歴史は、教派を問わず、たぶんこのときのイエスの言葉を根拠として始まり、
後から後からいろんなものが付け足されていった。
そして現在に至る。

イエスがペテロの上に建てたという教会はいまや、
黄泉の力にハッキングされているようにしか見えなかった。

壇上で献金を煽るおっさんが、サタン陣営のエージェントに見えた。
一時的に魔が差しただけかもしれないが。

いいお話を聴いて、会場が高揚しているところにハイテンションの煽りを入れて、
会衆の信仰心につけこんで試すような献金要請をするというやり方は、狡い。
どうしても神の業とは思えない。

「資金がショートしています、皆さんのご協力をよろしくお願いいたしますm(_ _)m」

ふつうにそう言ってくれたなら、私も気持ちよくいくらか寄付したかもしれない。

なんでそれを、いちいち神の御業だの、神のプロジェクトだのとかこつけて、
会衆の信仰心につけこむような煽り方をするのか。
これはズルいやり方だ。
免罪符商法と何の違いもない。

信徒を教団維持のお財布としか思っていないから、
聖会の檀上という神聖な場で、こういう表現が口から出てくるのだ。

キリスト教の福音宣教は、人々の魂を救うためではない。
教団のお財布たる信徒を増やして、教団を維持するためだ。
イエスキリストを信じて洗礼を受けて教会員名簿に名を連ねたら天国に行けますという、
会員権ビジネスだ。

内村鑑三は、この構造が神の御心でないことを確信して、
無教会主義を旗揚げしたんだろうな。

私が失望している間も、壇上のおっさんは元気よく何か煽っていた。
信じられないことには、会場もまた、それに煽られて異常な熱気に満たされていた。
なんで誰もこのおっさんの異常さに気づかないんだ?

私はもともと血圧が低いせいか、腹が立つと心の血圧が下がって冷淡になる。

私の心は、会場の熱気に反比例して、さらにさらに冷えてゆき、
ついに絶対零度にまで落ち込んだ。

絶対零度……氷点下273.15℃
命あるものすべてが静かに凍結して滅びる死の世界。

私が本気でぶち切れると、心の中がこういう死の世界になる。

しかしその時は、私の心の絶対零度の世界で、
たった一つだけ、ぽつんと残っているものがあった。

生きている言葉の柱。

言葉が刻まれた柱ではなく、言葉の生命そのものが柱状になったもの。

いわく。

「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」

これは……


最後の晩餐の席で、イエスがペテロに語った言葉の一部。

イスカリオテのユダは、イエスを裏切り、最後の晩餐を中座した。
そしてイエスが逮捕されたことを後悔して、自殺した。

ペテロも自己保身のために、自分はイエスと面識がないと言い張って、イエスを裏切った。
ペテロは激しく後悔したが、自殺はしなかった。
それはイエスのこの祈りがあったから。

 「シモン、シモン(ペテロ)、見よ、
 サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された

 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。

 それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 シモン(ペテロ)が言った、
 「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。

 するとイエスが言われた、
 「ペテロよ、あなたに言っておく。
 きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

 ――『ルカによる福音書』 22章31-34節

信仰がなくならないように……「信仰」という言葉はどうしても宗教臭く聞こえてしまう。

信仰は、英語訳なら faith
誠実、確信、信念という意味。

信仰をわたしの言葉で表現するなら、
「神様が好きだという気持ちと、そこから生じる神への信頼」。

宗教・教義・神学・各種制度を信じることが信仰ではない。
神そのものを信頼するのが信仰。

神を信頼するには、神のことが好きでないと無理。
好きでもない存在を信じて信頼することはできないし、従うこともできない。

だから神は、人間が守るべき律法(モーセ時代に授けられた神の掟)の筆頭として、
神への愛をあげている。

 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。
 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか。」

 イエスは言われた、
 「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
 これがいちばん大切な、第一のいましめである。」

 ――『マタイによる福音書』 22章35-38節 (<旧約『申命記』6章5節)

ちなみに二番目に大切なのが隣人愛。

まず第一に「あなたの神を愛せよ」というのは意外なことにも聞こえる。

しかし神への愛が無ければ、神を信頼しようがないのだから、
信仰には「神様が好き」という気持ちはぜったいに欠かせないのだ。

ペテロの場合は、たしかにイエスが大好きで、仕事も家族もおいてイエスに従ったけれど、
肝心なところで自己保身のためにイエスと無関係のフリをしてしまう。

激しく後悔したペテロはユダのように自殺するか、あるいは二度とイエスに顔向けできずに、
イエスから離れていく可能性があった。

それをイエスはあらかじめ全部わかったうえで、ペテロの信仰がなくならないように守り、
「あなたが立ち直ったときには……」と続けている。
ペテロがいったんはイエスを裏切るけど、また立ち直ることも織り込み済みだったのだ。

私の場合は、聖会の献金煽りに失望して、キリスト教にもすっかり失望したわけだけど。

失望のどん底に用意されていたのが、このイエスの祈りだった……

「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」

これは、まったくの予想外で。
キリスト教に失望したショックをはるかに上回る衝撃だった。

神は、いつも私の予想外だ。

聖書には、たくさんの「いい言葉」がある。
そして、神から人間に語られる内容はほとんどが「……しなさい」と諭す命令形。

かつて人間イエスとして地上に生きたことがある神霊が、私に言葉をかけるとしたら、
そうした「すばらしい諭しの言葉」のどれかだろうと思っていた。

でも、失望のどん底に用意されていた言葉は、私への命令でも要求でも諭しでもなかったね。

「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」

私の信仰……神様のことが大好きだという気持ちと、
それを土台とする神への信頼が失われないように、神が祈ってくれている。

私が神に祈っているんじゃなくて、神が私のために祈ってくれていたのかと、はじめて知った。

それからこの言葉が、何度も私の心の中でぐるぐるとリピートし続けた。

あいからわず壇上のおっさんは献金を煽るし、会場もなんか興奮してた。
それから献金タイムが終了して、別の講師が壇上に立って話を始めたけど、
私の耳には何も入ってこなかった。

イエスの言葉、その一節だけが、ずっと私の内側でリピートしていたから。
私が折れないように、今まさに支えて守ってくれているというのがよくわかった。

これまでの私が、なんだかんだで神様のことがずっと好きだったのは、
絶対零度の谷底でもけっして死滅することのない、生ける神の支えがあったからなんだなあ。

 主はわたしの魂を生きかえらせ、御名のためにわたしを正しい道に導かれる。
 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
 あなたがわたしと共におられるからです。
 あなたのむちと、あなたの杖は、わたしを慰めます。

 ――旧約聖書『詩編』 23編3,4節


たしかに、死の陰の谷でも、イエスの祈りは生命ある柱(杖)として立っていた。

宗教にガッカリしたせいで、イエスも新約聖書も嫌いになる……という方向にマガらぬよう
私を正しい道にとどめてくれる神。

イエスは、土台の石にもたとえられている。

 それゆえ、主なる神はこう言われる、

 「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。
 これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。

 信ずる者はあわてることはない。
 (信ずる者は失望に終わることはない/別写本)」


 ――旧約聖書 『イザヤ書』 28章16節

それが失望の谷底にある言葉の柱であれ、建物の基礎石であれ、
ふだんはなかなか見る機会もなく、気がつく機会もない。
でも、それがあるから、地上にあるものが安定する。

私はそれまで、いまいちイエスという存在がうまく理解できなくて、もやもやしていたのだけれど。

私にとってのイエスというのは、
私の絶対零度の谷底でも生きている神であり、私を立ち直らせる神だと判明した。

イエスは「私は神さまが好きだ」という気持ちの源でもある。
この源は、絶対零度でも凍結することはないということもわかった。

イエスはしばしば、神の子としての言葉を命の水にたとえている。

 「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、
 わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、
 永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」

 ……「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
 その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」

 ――新約聖書『ヨハネによる福音書』 4章14節、7章38節


永遠の命に至る水というのは、肉体の不老不死とはもちろん関係ない。
霊的に死なないということ。(失望は霊的な死の一形態だ)。

冷血な私の場合は、暑さで乾くことよりも、寒さで凍結することの方が心配なのだが。

世界一寒い定住地といわれるロシア東部のオイミャコン村は、
1月の平均気温は氷点下50℃、先月は氷点下65℃を記録したそうだ。

しかしオイミャコンは現地の言葉で「不凍の水」という意味らしい。
永久凍土の地でありながら、温泉が湧いているのだそうだ。

イエスの言葉もたしかに、オイミャコンの温泉のごとく、絶対零度の地に湧く不凍の水である。

私がキリスト教の集会に失望しても、
神さまを好きだと思う気持ちや、神様に対する信頼は、たしかに凍結しなかった。
今こういうブログを書いているのが、何よりの証拠だ。

拙著『旧約聖書と外典に……』を書いたときもそうだったけど、
神のことを書きたいという気持ちも、選ぶべき聖書個所も、私の頭でひねり出すのは無理。

私のエゴには、聖書のことを書きたい理由など何一つない。
エゴは、今からでもルーン占いの記事を更新してアクセス数を稼ぐべきだと思っているし、
ルーン鑑定を再開して、それで生計をたてればいいじゃないかとささやいてくる。
――もちろん却下。

そういう状況だから、私のエゴとはまったく別の源泉から流れてくるものがなければ、
聖書のことを書きたいという気持ちにはなりようがない。

 天地は滅びるであろう。
 しかしわたしの言葉は滅びることがない。

 ――『マタイによる福音書』 24章35節

この、滅びることがない言葉の本体がイエスであり、だから彼はメシア(救世主)なんだな。

ミコトバ(御言葉)は、「身言葉」だと聞いたことがある人もいるかもしれない。
日本語の尊敬表現「ミ・御」は、霊的実体のある「身」のことだという。

ミコトバに身があるからには、そのコトバには血がかよい、命がある。
日本語の古語は、血・霊・命のいずれも「チ」と読ませている。
「チ」の通う「ミコトバ」は生きている。

 人はパンだけで生きるものではなく、
 神の口から出る一つ一つのことばで生きるものである。

 ――『マタイによる福音書』 4章4節 (<旧約『申命記』8章3節)


肉体を維持する飲食(パン)がダメだという意味ではない。

神のチ(血・霊・命)がかようミコトバがなければ、
人の魂は生きられない、魂がフルわないという意味。

フル=奮、震、vibrate。
命あるものは振動している。フルえている。
死んでいるものは振動していない。フルわない。

肉体は生きていても、霊がフルわない者を、生ける屍とかゾンビとかいう。

輪廻転生、魂が何万回と転生して、そのたびに肉体が新しくなったところで、
霊性がフルわないままならば、それはゾンビとしての転生をくり返しているだけだ。
そういうのは、生きているとはいわない。

 わたしはあなたのわざを知っている。
 すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。

 ――新約聖書『ヨハネの黙示録』 3章1節


霊性をフルわせるには、霊を活かす糧がいる。

ハヤフル神のミコトバ。

イエスは自らのことを、「命のパン」「天から下ってきた生きたパン」とも自称している。
霊性を養い、活かしてくれる糧という意味だろう。
フルわない霊を生きかえらせるパンでもある。

ただし、命のパンの恩恵に預かるには、それを食べる必要がある
絵に描いた餅として眺めているだけでは何にもならない。

 わたしは、み言葉を与えられて、それを食べました
 み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。

 ――旧約聖書『エレミヤ書』 15章16節


   *******

 「人の子よ、わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ
 これであなたの腹を満たしなさい。」

 わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。

 ――旧約聖書 『エゼキエル書』 3章3節


命のパン = 神のミコトバ。
命のパンを食べること = 神のミコトバを信じて受け入れること。

宗教や宗教指導者を信じることとはぜんぜん違う。

自分と神との一対一の関係において、納得して受け入れるということ。

私が言っていることは、キリスト教の説明とは違っているかもしれない。
でも、私にとっては、そうなのだ。

キリスト教の集会で失望して、絶対零度の世界につきおとされた谷底で、
そこにイエスのミコトバが生きていたのは事実だ。

「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」

イエスの私への唯一のオーダーは、この事実を知って受け入れること。
少なくとも、現時点においてはそう。

あれをしろ、これをやめろ、宗教を信ぜよ、献金せよ云々などとは言っていない。

イエスと呼ばれる神霊が与えてくれたミコトバがこれだったからこそ、
私はようやく三位一体の神が腑に落ちた。

 全能神ヤハウェ  イエス(神の子)  聖霊(神の分魂、ワケミタマ)

これは私の個人的な事実。
自分の身に起こった事実を否定することはできない。

イエスの神霊が祈ってくれている……

アルファでありオメガである神の祈りは、
私の魂の最底辺よりさらに深いところにあるものだから、滅びようがない。
だから私は過去にも神様が好きだったし、今日も明日も神様が好きだ。

私と神との関係においては、この個人的な事実こそが神のミコトバで、
イエスが私の個人的なキリストだという確信になる。

宗教は嫌いでいいが、だからといって、神と聖書は嫌わない方がお得だと思う。

かつてミッション系の学校に通っていた等の理由で、
本棚の奥に聖書を眠らせている人がいるなら、軽い気持ちでそれを開いてみたらいい。

神はすべての人に、個人的な事実をとおして、ミコトバをあらわしてくれるに違いない。






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(イエス) 「わたしはキリスト教を信ぜよとは言わないが、
       キリスト教を否定せよとも言っていない。」       
       
(KAZ)  「言い過ぎましたか? スミマセン……フォローしておきます(´・ω・`)」


 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、
 万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

 ――新約聖書『ローマ人への手紙』 8章28節








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