中学受験であれ大学受験であれ、受験学年になると「体力がない」と嘆く人がいます。実際、学習内容を身につける労力に対して、体力が足りなくて受験学年で沈没していく受験生は少なくありません。
そういう方々の「負け惜しみ」でよく聞くのが、「学力はあるが体力がないから負けた」という主張です。でも、それって違うよね?と自分は思います。

「学力」と「体力」を別の要素に考えている人は少なくないように見えますが、「学力」の主たる担い手である脳も人体の臓器である以上、「学力」も肉体の機能の1つです。学力試験は「脳とそれを支える人体の機能の試験」と表現することができます。
「魂」なるものが人体から離れて存在するか否かは信仰の問題なのでここでは触れませんが、現世の学力試験で問われているのは「魂の力」ではなく、現世に存在する「人体の能力」です。

ですから、「体力があること」や「肉体が強靭なこと」も学力を構成する主要な要素であると言えます。「体力がないから負けた」というのは、「学力で劣っているから負けた」と言っているのと同じであり、理解するスピードが遅いから負けた、記憶力が良くないから負けた、というのと何ら変わりはありません。



この手の議論で必ず出てくるのが、「女子は体力で劣るから受験には不利」という主張です。しかし、平均値で見たらそうかもしれませんが、その界隈の人たちの「言説」を流用すると、「あくまでも平均であり、性差より個人差の方が大きい」のであり、「女子だから不利」という主張は「男女平等」の社会では決して口にしてはいけない禁忌です。

また、例え体力で劣っていたとしても、それにハンデを与えるようなことはすべきではありません。もしそれがOKなら、「記憶力が悪いから」とか「思考速度が遅いから」にもハンデを与える必要が出てきますが、

個々の能力の過不足も含めて、結果で判断するのが学力試験

というのが、学力試験に関して本邦で共有される「コモンセンス」であろうと思います。



そんなわけで、受験では「体力」が重要な要素であると言えます。

小学校の低学年とか、中高一貫校の中学時代とか、「先取り学習すれば有利になるのではないか」という保護者の助平根性で「とにかく先取り」に走る家庭は少なくないです。
しかし、先取り学習したところで結局は中学受験も大学受験も「地頭の性能のレンジ内」に受験結果は収斂していくのですから、受験直前に体力依存の勉強で「地頭の性能のレンジ内での最高の結果」を出せるよう、受験学年でない、時間があるうちに体力を鍛えていたらいいのではないか、と考えます。

もちろん個人差はありますが、脳ミソよりは脳ミソ以外の肉体の方が、訓練と習慣で変化する「幅」が大きい(鍛え甲斐がある)ような気がしますし、受験勉強を抜きにしても、体力がある方が人生の選択肢は広がると思います。



受験結果は地頭に依存する、という身も蓋もないお話のまとめはこちら(笑)。