「私さえ我慢すれば、丸く収まる。」
そう思って、 飲み込んできたことが
たくさんある人がいると思う。
本当はこうしたかった。
本当はこう言いたかった。
本当はちょっと違うと思っていた。
でもその「本当は」を後ろに置いて、
場を収めることを優先してきた。
それは、 やさしさからだったり、
気を遣えるからだったり、
その場をちゃんと見ているからこそ
できることで。
悪いことじゃない。
でも、それが続いた先で、
ある感覚が出てきやすくて。
それが、
「なんで私ばかり」という感覚。
誰かを責めたいわけじゃない。
でも、じわじわと湧いてくる。
あんなに気を遣っているのに。
あんなに合わせているのに。
あんなに我慢しているのに。
この「なんで私ばかり」という感覚、
実はとても大事なサインで。
我慢の限界というより、
本音が限界ですという
サインだと私は思っていて。
「私さえ我慢すれば」の裏側には、
必ず本音がある。
本当はこうしたい。
本当はこう言いたい。
本当はこれが嫌だ。
その本音を、
ずっと後ろに置き続けた結果として、
「なんで私ばかり」が出てくる。
ここで少し立ち止まって
考えてみてほしいのだけど、
我慢することで丸く収まっている場は、
本当に丸く収まっていますか?
表面は穏やかかもしれない。
でも内側は、どうですか。
我慢で保たれた関係や場は、
穏やかに見えて、 その実、
少しずつ歪んでいくことが多いんです。
なぜなら、
そこにいる一人の本音が、
ずっと置き去りにされているから。
本音が置き去りになった場所は、
どこかに空洞ができていく。
もう一つ、気になることがあって。
「私さえ我慢すれば」と思える人は、
たいてい、我慢することへの
閾値がとても高い。
少しくらいの不満は、
我慢のうちに入らない。
もっとひどい状況の人もいるんだから、
これくらいで我慢できないのはおかしい。
そうやって、 自分の本音を
「それくらいのこと」にしてしまいやすい。
でも、 大きな我慢じゃなくていい。
小さな「本当はこうしたかった」が
毎日積み重なることの方が、
じわじわと深く、本音を遠くにする。
我慢をやめなさい、
と言いたいわけじゃなくて。
ただ、 我慢する前に一つだけ、
自分に聞いてみてほしくて。
「これ、本当に私が
飲み込まないといけないことですか?」
と。
答えが出なくてもいい。
ただ、その問いを持つだけで、
少しだけ本音との距離が縮まる気がするから。
「私さえ我慢すれば」が
口癖になっている人ほど、
実は誰より、自分の本音を大切にする
資格がある人だと私は思っています。
その我慢の数だけ、
後ろに置いてきた本音がある。
その本音を、少しずつ拾い直していくことが、
自分を取り戻すということだと思っています。
いつもそれが大事なことかどうか、
考える前に飲み込んでいませんか。
今日一つだけでいいので、
飲み込もうとした瞬間に、
立ち止まってみてほしいな♪