こんばんは
渕辺です( ̄▽+ ̄*)
先週の土日は、千葉から娘が来ました。![]()
母は、娘の来訪を
毎回の如く、指折り数えて待っています。
娘が来ている間は、とても穏やかに過ごしてくれます。
仕事をして家のこともあるので
私的には
娘の生活に無理のないように来てくれれば良いと思っていますが
母の穏やかな顔を見ると、つい私自身も嬉しく思います。
土曜日の夕方19:00に来てご飯の支度を手伝い・・・
母の隣に座り、ご飯を一緒に食べる・・・。
寝る前には、寝室に2人で30分ぐらいたわいもない話をする。
おばあちゃんといえども
普通に小さい子供がじゃれあうように賑やかです。
⇒膝や体にまとわりついて(母の傍を通るたびに)います。
その時の母の嬉しそうな顔(=⌒▽⌒=)![]()
母にとっては、とても楽しい時間のようです。
私自身の母方の祖父母は60代で亡くなったのですが
90代まで父方の祖母は健在でした。
私も宮崎に帰った時には、
いつも一番最初に
おばあちゃんに会いに行ったことを思い出します。
私の田舎は、「部落」と言ってもおかしくない位の田舎です。
高齢化が進み私たち世代は少ない。
親世代がそのまま残って農業の仕事をしています。
人家は離れ、畑や田んぼに囲まれた
ホントにすごい田舎です。
15歳の頃、実家を離れて寮生活。
年頃の私は都会暮らしにあこがれていました。
私の実家は農家。
父は次男でしたから分家です。
私が生まれてから外に働きに行くようになりました。
農業の仕事では、現金の確保が難しく子供を育てていくために
父は土建業の仕事に行くことを決めたようです。
毎日、作業着を着て夕がたには、真っ黒に汚れた作業着。
乗用車は家にはなく、トラックがありました。
車を2台持つほどの生活の余裕はありませんでした。
几帳面な父は、毎日日記を書いていました。
私が大人になって宮崎に帰った時に
偶然に父の給料明細を見たことがあります。
ゴメンナサイ![]()
当時、給料としては、12万~13万だったと思います。
その給料で妻と子供3人を養っていました。
物価の違いはあれど、生活は実際ギリギリだったし
家計のやりくりは大変だったのではと思います。
私も思春期の頃は、反抗期がありました。
また、両親に迷惑をかけたり心配させる時期もありました。
高校3年間は寮生活。
長期休みの時には
自宅に帰りますが、必ず父がトラックで寮に迎えに来てくれます。
帰りも父が送ってくれますが、
必ず、送る途中にお蕎麦屋さんか?ラーメン屋さんに立ち寄り
2人で夕ご飯を食べさせてくれました。ヾ(@^(∞)^@)ノ
皆さんには理解できないかもしれませんが
その時代は、家族で外食なんてほとんどしない時でしたから
精一杯の父の私に対する愛情表現だったのかもしれません。
大人になってから両親の想いを感じる場面がたくさんありました。
子供の頃にわからず、自分で働くようになり働くことの大変さを知りました。
父が働くようになってからも農業の仕事は兼業で行っており、
土建の仕事が始まる朝と帰ってからの夕がたは農作業の仕事。
牛も養っていたので土日も関係なく働いている姿を覚えています。
父が56歳ごろ、仕事中けがをして農家の仕事を出来なくなり
後遺症のため、千葉に上京して治療していました。
田んぼや畑の仕事、家で飼育していた牛10数頭
全て本家の叔父に依頼することになりましたが、田んぼや畑は別として
牛については、本家の叔父の家にもいたこともあり
全てをフォローすることは困難でした。
千葉で療養中(私の家)
やむなく牛は、全て処分することになりました。
決断したのは両親です。
父が本来ならば、まだ50代で働ける年齢。
職場も失い、農業の唯一収入源である肉牛の生産も出来なくなった。
本家の叔父から牛の売却が終了した時に
両親は何も言わず、2人で泣いていました。
自分たちが積み上げたものが無くなってしまったからです。
私は、その両親の姿が忘れられません。
今、私はその時の父と同い年。
その時には、わからなかった気持ちがヒシヒシと伝わってきます。
働けるという事がどんなに素晴らしい事なのか?
どんなに大変でも頑張らなくてはと思います。
これからも介護の仕事・・・頑張ります!

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