元従業員が,起こしてきた裁判は,労働審判というものでした。

 

この審判は,裁判所で行う手続きが,いわゆる通常の訴訟とは異なります。

訴訟では裁判官が審理を担当しますが,労働審判は,裁判官1人,労働審判員という労働問題の実務家2人の合計3名で審理が行われるのです。

また,訴訟の場合も,通常は解決までに1年はみておく必要があります。流れとしては,訴状を提出してから,最初の裁判の日程までが約2~3か月,それから1カ月おきに裁判が開かれ,その回数は10回を超えることもあり,判決がでるのに1年半以上かかることも珍しくありません。

しかし,労働審判は,審判を開くのは3回までと決まっています。

 

 

さて,本題。

早速,事務所にて打ち合わせをすることになり,社長は,裁判所から来た書類をもってきました。どうやら,元従業員は弁護士をつけていない。

その中には,残業代だけでなく,在職中に社長のパワハラがあり,精神的苦痛を受けたとして慰謝料の請求もしている。

温厚で,どちらかといえば気の弱いイメージしかなかった社長だけに意外だった。

 

「社長が厳しく叱責をしたと主張していますが,これは事実ですか?」

「はい,いつも彼が,日報を忘れたり,営業計画を立てないので,堪忍袋の緒がきれてしまいました。しかし,強く注意したことは確かですが,彼の人格をけなすようなことは言っていません。」

「なるほど,では,この叱責は業務上必要な注意に過ぎないと反論しましょう」

 

「ところで,先生」

「前に,この元従業員がライバル会社に出入りしているという話しをしましたね。実は,弊社の取引先からこのようなものが」

 

同行してきた専務が,クリアファイルに入った名刺を私に渡してきた。

名刺には,元従業員の名前が書いてある。会社名はライバル会社の社名。肩書は営業ゼネラルマネージャーとある。具体的にどのような役職になるか不明であるが,若干,平社員よりは格上な気がする。

 

「どうも,この元従業員は,取引先の部長さんにこの名刺を渡して,今後はこちらで取引してくださいと言い出したようです。今回の件をその部長さんに話すとこれを頂きました」

「元従業員が,部長さんに名刺を渡したのはいつ頃ですかね?」

「1年前だそうです。部長さんは,弊社との取引を続ける気だったので,元従業員をしかりつけたようですが,その後彼が謝ってきたので,内密にしたそうです」

 

つまりこの元従業員は,会社から交通費名目で小遣いをだまし取る一方で,同業他社の営業をしていた。

 

「社長,強気でいきましょう。」

 

私は,反論の書面を作成し,委任状と共に裁判所に提出した。

 

労働審判の当日,裁判所のロビーで待ち合わせをしていた社長は約束の時間より15分早く来ていた。緊張しているのがよくわかる。

開始時間の数分前に労働審判室に入ると,部屋の中央には10人くらいが席に着ける大きめの楕円型の会議机があり,定刻丁度に裁判官たちが入室してきた。

 

労働審判が始まる。

 

労働審判では,当事者の話を交互に聞いていくが,元従業員が申し立たてので,元従業員が先に事情を聞かれるのだが,退室して廊下で待つこの時間は,社長と専務にすれば,1,2時間にも思えたに違いない。

実際には15分ほどで,次に私たちが呼ばれた。

 

「すると,ご主張は,まず時間外労働は申立人(元従業員のこと。申し立てた者を「申立人」と言い,申立てられた者を「相手方」という)が主張する時間ではない。いわゆるパワハラはない,ということでよろしいですね。あと,その他の事情の記載にありました交通費の不正請求と競業避止義務違反の件は,別訴で争う。ということですね。」

 

私の説明が一通り終わると,楕円形のテーブルの正面に座っている若い裁判官が確認した。高級ブランドとわかるネクタイをきちりと締めている。真新しい結婚指輪から見ると,奥様のプレゼントかもしれない。裁判官の左右には初老の男性が2名。これが労働審判員である。右端では裁判所書記官の女性が熱心にメモをとっている。

「そうです。あくまでも,時間外労働とパワハラの有無が争点ですから」

「しかし,先生,紛争をここで全部解決するとはお考えではないですか?」

「それはそれ,これはこれです。現在,告訴も済んでおります。粛々と手続きをすすめたいと考えております。」

「それでは,御社にご負担がかかるのではないでしょうか。社長,どうですか。」

「それは大丈夫です」

すると,裁判官の左側に座っている労働審判員が口を開いた。

「よろしいでしょうか。まず,本件ではタイムカードはないです。しかし,労働時間をメモした申立人のメモがあります。この証拠自体が全面的に信用できるか別として,お話を聞く限りでは,始業の30分前と終業時刻の30分後は,申立人が働いていたと言わざるを得ないと思います。」

 

裁判所の判断とすれば,おそらくそうだろう。読み通りだ。

 

「すると,基本給から算定される時間外手当はこのとおりですね」

 

これも読み通り。すると裁判官が労働審判員に代わり,話し出す。

 

「あと,交通費について,代理人の書面によれば返還するべき金額は,金△万円ですから,この分を未払残業代から差し引くと,金○万○円です。これを御社から支払いをするということで和解をするのはいかがでしょうか」

 

裁判官らしい発想の和解案である。ここで会社と元従業員の紛争を全て解決したいようだ。しかし,この話に乗るのは,もう少し我慢しよう。

私は,左隣の社長の耳元で2,3言ささやくと,社長がわかったと首を縦に振る。

 

ここは主導権を握らなくてはならない。

 

「裁判所,この場で解決したいというのは従業員の方の希望でしょうか。当社としては,残業代を支払っても,不正を見逃すわけにはいきません。厳正に対処したいと思っております。また,競業避止義務違反についても,訴訟提起の予定です。それでも,なおこの申立を維持されるか,申立人のご意見をうかがいたいと存じます。もっとも,申立人とすれば検討の余地があるでしょう。当社も,他の件とのあわせた和解が可能かどうか,検討する必要があります。和解案提出の余地がありますが,それは次回期日ということでよろしいでしょうか」

 

続きは,次週。

 

 

 

 

いや,今週で終わりにします。もう少しお付き合いください。

 

 

 

4週間後,同じ部屋で労働審判の第2回期日があった。

今回は双方が同席している。

 

私は,和解案を提示した。

まず,元従業員は未払残業代及びパワハラの慰謝料請求権を放棄する。当方もネコババされた交通費の請求を放棄し,詐欺罪での告訴を取り下げる。また,競業避止義務違反の損害賠償をしない。つまり,ゼロ和解という案である。

私の説明が終わると,社長が発言の許可を求めた。裁判官は,いったん時計を見て,発言を許可した。

 

「私は,まず,●●君(元従業員)に謝りたい。怒ったこと。勤怠管理がいい加減だったこと。そのことで,君やほかの従業員に迷惑をかけた。これは本当に済まないと思っている。しかし,していい事と悪いことがある。この名刺はどういうつもりですか。交通費もどうしてなんだ。きちんと答えてくれ」

 

社長は,5分ほどしゃべった。その後,しばし時間があって元従業員は,俯きながら,ゆっくりと,言葉がつまりながらも答えた。

 

「その名刺は,,,確かに,,,私のですが,なぜ,その取引先にあるのかわかりません」

 

ここは攻めるべきだ。

 

「申立人,今の説明は間違いないですね。この名刺はあなたの名刺であり,普段あなたが持っているもののはずだ。今のご説明では,あなたの名刺が勝手にあなたの名刺入れから出ていき,取引先の部長さんのポケットに飛んで行ったことになる。その説明を裁判でじっくりうかがいましょう。不規則発言,失礼しました。」

 

裁判官は,申立人の意見をうかがいましょうと,私たちに退席を促した。元従業員は,やはり,俯いたままだった。

廊下で10分ほど待つ間,社長は何度も「大丈夫でしょうか」と私に問いかけた。

 

やがて書記官に呼ばれ,

 

「申立人は,和解案に同意します。条項案を確認しますので,部屋にお入りください。」

 

社長は,顔を真っ赤にして,私の手を握った。

 

「ありがとうございます。」

 

 

この労働審判は,ゼロ和解で終了した。社長からすれば,実質,勝訴といってもいいだろう。しかし,社長には,労働環境の整備という大きな宿題が残っている。

 

きちんとできるような就業規則や勤怠管理などの環境作りには,まだまだ時間がかかる。

 

全ての中小企業に完全な労働環境を求めるのは極めて困難である。しかし,より良好な労働環境をつくる努力は常に必要である。