人気blogランキングは? “À la recherche du temps perdu” …プルーストのフレーズをなめるように読み、プルーストのペンをなぞるように書き、プルーストの生涯を映しとるように生きるのだと、馬場から明治通りを歩いてゴールデン街への深夜の道すがら、ボソボソと語るでもなく胸の内を明かしてくれたTOMOは、仏文を専攻する学生で、私が唯一人、あうんの感覚を共有できる男であった。
 TOMOの眼差しは、いつも優しさに満ちあふれた心地良い揺れをもって私に注がれ、時折、均衡のとれた美しい顔の中の柔らかな輪郭の瞳が、ひときわ輝きを増し求めるように燦めくと、私は、まるで抵抗力を失った細胞かなにかのように自らの意志を喪失し、不可思議な光の渦に巻き込まれ、オルガスムスにも似た感覚に放り込まれたりした。おそらく私は、それと気づくことなく彼に惚れちまったのかもしれない。
 TOMOとは、いくつかの専攻科目の教室が一緒で、何度か顔を合わせるうちに、四国の中学1年だった時、岡山から遊びに来ていた美しい従姉さんからプルーストを教えられ、彼女によって女を知ったと切れぎれに話してくれた。未だ童貞に近かった私は、その繋ぎ合わせたストーリーを、危うい誘惑をはらんだ動悸の高鳴りとともに聞いた。
 私には、ほとんど読みこなすことなどできないはずの膨大なプルーストの全巻を、彼は、中学の頃から辞書を片手に読み続け、いつ何時でも、まるで小脇に抱えてでもいるかのように、流暢なフランス語で口ずさむように取り出してみせ、時を行きつ戻りつするように心地良さそうに微笑んでは、独自の翻訳にちょっとしたコメントをそえながら、私の反応をいちいち確かめるような悪戯っぽい目をして、やさしくわかるようにしてくれた。
(C) JULIYA  フィリップ ソレルスの 「公園」や「ドラマ」を知り、ジャン チボードーの「夜を想像せよ」、アラン ロブグリエの「快楽の館」に耽溺したのも、あるいは、「澁澤龍彦集成」の全巻を、なけなしの金をはたきながらなんとか揃え、その分厚い黒表紙の本を終始持ち歩いたのも、TOMOが、それらを教えてくれたからだ。
 私は、TOMOが見たり聞いたり、考えたり感じたりしていることを、少しでも多く深く知りたかった。
 いずれにしろ、そこには、私とTOMOだけの密かな時の流れが確かにあったのだ。
(C) JULIYA MASAHIRO 60年代のどん詰まりで、安保闘争に揺れる文学部は活動家たちによってバリケードが築かれたロックアウト状態で、志ある者たちによる自主講座なども開かれてはいたが、ノンポリを自認する私の仲間たちは、早稲田より新宿に向かうことが多く、フーテンよろしく、日々街を彷徨していた。東口や西口広場、コマ劇前広場に日がな一日座っていても文句を言われたりはしなかったし、何と言っても紀伊國屋の立ち読みは魅力だったし、居座ることのできた小さな名画座が幾つもあった。ションベン横町の一杯飯屋、ゴールデン街や二丁目の安酒場、たむろできる凮月堂やクラシックをふんだんに聴けたランブル、トランペットを抱えてカウンターでコーヒーをすすったDIG や DUG があった。
 その頃、TOMOは書店や百貨店で、ちょっとしたものを、こっそりと失敬して、気に入った見知らぬ女の子にプレゼントするという危険な行為を修行者のように自らに課していた。
 もっとも、私も「共犯者」であることに心ときめかし、寄り添って aventure を楽しむようなところがあったが、CHIKOは、そんなTOMOのお眼鏡にかない、網の目にかかった一人というわけだった。
 CHIKOは、ちょっとハスキーでセクシャルな声で歯切れの良い東京ことばを使い、アニメの小さなベティちゃんのように愛くるしく笑う可愛い女ではあったが、私には英文専攻にひとり恋い焦がれていた女がいた。
 最初、CHIKOの椎名町の部屋へ行こうと言ったのは、TOMOだった。
 とっくに夜の帳の下りた時間なのに、うまい口実を作ったTOMOは、かなり強引に大家さんに頼み込んでCHIKOを呼び出し、狭い廊下をたどるようにして2階にあった6畳ほどの部屋に上がりこんだ。
 幾つか年上で、しかも仕事を持っていたCHIKOは、まるでやんちゃな困った弟たちを迎え入れるように優しかった。
 一緒にいるだけで濃密な時が流れ、微睡むような一夜を明かしたTOMOと私は、CHIKOが用意してくれた味噌汁を啜って、仕事に向かうCHIKOと一緒に、西武線から山手線を乗り継いで、いつものように暮れの押し詰まった新宿の街に出た。
 その日、歌舞伎町から角筈への見慣れた風景が、冷え込んだ朝の光の目映い揺らぎの中で、未だ経験したこともないように遠く透き通って見え、そんなことが、ちょっとアンニュイな気持ちを擽ったように、私は、TOMOにむかって、思わず意味のない微笑みをしてみたりした。
 
 CHIKOは、いつも無理矢理幸せそうにしている、寄る辺ない女のようだった。
 私は、そんな風情の女にほだされてしまう。
 私は、一人だけでCHIKOの部屋を訪れるようになり、やがて、それが日常になっていった…。

 時は過ぎ去り行き、時の中にあった事象もろともに「無」に帰するだけで、本当には点ですらないのだし、失われることによって、私たちは時を求めることができる。
 私の、今の、ここに、すでに失われ、無いというのなら、私は私自身の中で想い描くしかない。もしそんなことができるならば、その時、私は、過去・現在・未来にわたるあらゆる時を、この肉体に内包し、その限りにおいて、私は失われた時だけでなく、それを含む時と空間に存在することができるのではないか。…あたかも、私は、私の想念の中で、くるりと皮膜を反転しさえすれば、あらゆる時にタイムスリップが可能とさえ思えるのだ。
 
 「KIMI、ねェ、そこにいるのね…私の中に、しっかりと感じているわ…これって、あなたの温かい塊そのものなのよね。あなたは、きっと訳もわからず、そこにいるのかもしれないわ。ちょっと戸惑ったりしているのも、私の一部のように、ほら、伝わってくるのよ。はにかむように唇に力を込めて上目遣いにするときのKIMIは、ストレートに私に言えない何か不満があるときだから…少しでも恨んでいるとしたら、ちょっと悲しいわ…だって、こうやって私の中に閉じ込めている以外に、あなたの命を安全に私の下に引き留めておく手立てがあったかしら…あなたが、今そこにいることは、あなたのいつものやんちゃすぎた行状が招いたことって、きっとわかっているはずよ。ほらゾクッていうあなたのリアクションが伝わってきたわ。そうよ、薄々気づいていると思うけど、因果応報だって、もう受け入れているかもしれないわね…」
 今、ここから最後の一歩が踏み出せないのは、思い巡らせてみると、恐らくCHIKOが投げ打つ「呪縛」の網にひっかかっているからに違いない。
 それに、どうやら私は、そんな境遇にあっても「覚醒した不眠」の訪れを、夜となく昼となく心密かに待ち望んでいるようだ。
 どんなに足掻いても、CHIKOの「天網」から到底逃れられない私が、「日々贖罪」の過程で気づいた、唯一の、これからも何とか「生きようとする意志」かもしれない…。
 そう、この心地良い温もりに柔らかく包まれた安寧を、至福感に満たされた時の流れるままに素直にスンナリと受け入れ、それ以上の何かをあえて望まぬのが、とどのつまりの成り行きであり、きっと今、私があり得べき自然の姿なのだろう。
 何かを意図し行動せぬままに、ただひたすら待ち続けることだけが、私に残された「今の在り方」だとしたら、「今ここにいる」こと自体が明らかに受けるべき償いであり、さらに「覚醒した不眠」を受け入れていくことこそが、CHIKOへの最も真摯な贖罪であろう。
 なぜなら、やがて本当の「あら側」に行き、「こちら側」に生きた痕跡を時と空間を内包したまま、立つ鳥さながらに残さぬことをずっと願い続けてきた私にとって、「生きようとする意志」を持つことは、そのままそれは大いなる責め苦であり、重い「罰」となるはずだから…。
 だが、しかし「覚醒した不眠」は、確かに責め苦ではあるけれど、今の私には、 grass を肺いっぱいに吸いこんで迷いこむ浮遊感にも似た甘い「蜜の味」である。私はまるで次元のない場を手にし、珠玉の imagine を羽ばたかせるのだ。
 それは、少年の初々しく青い妄想の中にぼんやりと浮かび上がってくる、身を焦がし憧れた乙女の「秘所」にも似て、性懲りもなく私を駆りたててやまない。
 触れる感触のその先にある美しく彩られた未だ知らない物語の奇想天外な展開を予感させながら、鬱々と私を魅惑し続ける。
 私のリビドーの在処をたずね遡り行けば、ニューロンの先端で待ち構え、微笑んでくれているそれは、生きていこうとする意志そのままに、私にとってこの上もなく危険を孕んでいたりもするけれど…。
 私が自らを問いただすこともなく、なんの疑いもなく私の行動を信じてきたのは、それを問いただして解を得られる類いのものではないという諦観が、すでに閃きのようにあったからだろう。それは恐らく私の創造主をしてしからしめるところで…言ってみれば「神の命ずるままに」というわけなのかしら。
 微睡みの中で、これと意識できる際立った兆しもなく、手術台の上で痲酔をかけられ自然に移りゆく感覚にも似て、「覚醒した不眠」がすでに訪れている。
 私は、体を失った軽さでフワフワと漂い、視界の果てに、おぼろげな border が遠く陽炎のように揺らいで見える。
 ほら、私はTOMOと並んで、味噌汁の湯気を透かすようCHIKOの爽やかな笑顔を、今、見つめている…。

【PHOTO:JULIYA MASAHIRO】
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