田中信昭先生との思い出 | 日々に、折々に…

日々に、折々に…

折々に浮かびくることをとりとめもなくつづってみました 風の音を聴きながら…

 日本の合唱をまさに牽引、そして、プロ、アマチュアを問わず合唱団に新たな息吹を送り続け、声楽におけるアンサンブルとは何か、合唱とはどんなものなのかを問い、わたしたちに投げかけ続けてくれた田中信昭さんがお亡くなりになった 田中信昭がいなければ、まさに日本の合唱文化、特にアマチュアの世界に誇るべきレベルの高さは決してなかっただろう 田中信昭先生のやってこられたことはボクが改めていう必要もあるまい ここでは不肖のボクが田中先生から受けた影響や田中先生との思い出を少し語ってみたい
 ボクが合唱を始めたのは大学生になってからである 綺麗な女性の先輩に声をかけてもらい、ついふらっとクラブハウスにいってしまったのが運の尽きだった それまでバリバリの運動部で小中高と過ごしてきたボクにとっては超軟派な部活動だと思えた ところがだ、いつの間にか素晴らしい先輩や仲間に出会えて、夢中になっているボクがいた そこでやっと気づいた「音楽を勉強しなきゃいけない」と!当時の連盟や大学部会の講習会ではいつも「シンショウ先生にきてもらうか」という声が上がった 皆親しみを込めて信昭先生を「シンショウ先生」と呼んでいた 3回生から指揮をするようになって4回生ではすでに林光、武満徹、三善晃などを取り上げて、バリバリやってる気になっていた 4回生の時の全日本合唱連盟関西支部大会には審査員として田中信昭先生、テレマン室内管弦楽団指揮者の延原先生という一線で活躍する先生方が含まれていた 三善晃と武満徹をもっていった 連盟関係の審査員がよくて2位しかつけてくれなかったのに延原さんと田中先生だけが1位をつけてくれた 田中先生から直々にコメントをいただいた 聴き合うために半円になって演奏したこと、三善作品の言葉の扱いが良かったこと そして、武満徹「風の馬」は「もっと魅力的な作品だと思います」とあの独特のandante non toroppoの口調で!魅力的とはどういうことなのだろうと以来ずっと問い続け、田中先生に憧れ続けた 三重県のその頃全国大会常連となりつつあり銀賞などもとっていた「合唱団うたおに」の演奏会に田中先生が客演し、1日練習を行うという情報を聞きつけ、伊勢にある皇學館大学のホールに駆けつけた 林光の「ねがい」をリハーサルしていた ことばがうねりながら情念として、そして昇華されていく音楽的風景を見た ちょっとした休憩時間に譜面台の田中先生の楽譜をのぞき見したりもした その後、合唱団うたおにに入った 在籍した10年ほどの間に田中先生をはじめ栗山文昭、小泉ひろし、関屋晋など一流とされる多くの音楽に出会うことができた しかし、田中先生は別格だった 私たちが時間をかけて作り上げてきた音楽を一振りでマジックにかけるように変えてしまうのである その音楽も、言葉の意味も、そして、声がつくる響きも…  いつも新しい地平を拓いて行った 今を生きる作曲家に委嘱して曲を書かせ、岩城宏之さんと共にとてつもなく多くの合唱曲を生み出してくれた 
 うたおにでの練習が終わって、一緒に食事して、その後ホテルへ送って行き、朝迎えにいくのはボクの仕事だった 作曲家の青島広志さんをはじめ、先述の指揮者たち、あと作曲家の寺嶋陸也さんなども送り迎えした 車中での話題に気を使うのだが、田中先生以外の方は津のうまいものはなんだとか、観光スポットはなんだとかという音楽から離れたものが多かったが、田中先生とはずっと合唱のことばかり話していた 決して理屈を感じさせない情熱的な人だった それでいて決して近視眼的ではない 
 合唱団うたおにで田中先生の指揮で三善晃の不朽の名作「嫁ぐ娘に」を歌った 第3曲あたりで会場ですすり泣きが始まり、第5曲「かどで」が終わったら皆涙をふきながら拍手を送ってくれた 舞台袖にはけてからメンバーで抱き合って泣いた 会場は三善晃の愛と願いで満ちていた 不死鳥のように活躍し続け、ついこの間の8月31日には東京混声合唱団の「東混オールスターズ」でも振っておられた田中先生 
 田中信昭先生のご冥福を心よりお祈りします