今朝一番のショックは

唐十郎死去のニュースですドンッ

 

実は二週間前

唐組の紅テントが兵庫の湊川公園に来る

と言うので、行こうかどうしようか

迷ったあげく行かなかったのです。

 

 

どうせ唐十郎氏は出ないようだし、遠いし

大阪城公園でやってくれよ

などとふやけた事を考えておりました。

 

11年前の古田新太さんだって

「間に合って良かった」

と言っているのに・・・

 

 

蜷川幸雄氏も死んだなあ・・・

 

演劇的世代論で言うと

3世代くらい違うのですが

ワタクシはこの世代の方々の

アングラと言うジャンルが大好きでした。

 

ワタクシが唐十郎体験をしたのは
今から34年前
1990年の生玉神社の境内。
 
1988年までが『状況劇場』
その後の名称が『唐組』です。
 
あゝ状況劇場には届かなかったな…
と思っていたのですが
1990年のその公演は
辞めたはずの大久保鷹氏や麿赤児氏が登場する

かなり特別な舞台だったらしく。

 

夕暮れの生玉神社境内が

怪しさで溢れていました。

 

役者が怪しいのは分かるけど

集まってるお客さん達がマジで怪しい(笑)

 

あゝ1960年代って

きっとこんな雰囲気だったんだ…

タイムマシンに乗って

時代を遡ったかのようでした。

 

演目は『セルロイドの乳首』

 

舞台は、それはそれは衝撃的で、刺激的爆弾

脳内で火花が散りました。

 

今から思えば

当時の唐十郎氏は50歳。

 

現在と違って、当時の50歳って

いい大人の扱いでしたから

「じじい達がいい年をして

はしゃぎ回っている」

って感じバリバリだったのですよww

 

こんな事を書き出すと、止まらなくなる。

 

演劇に全く興味のない方や

唐十郎氏を知らない若い世代の方には

何が何やらチンプンカンプンでしょう。

 

巨星落つ。

 

唐十郎氏を悼み、お悔やみ申し上げます。

 

最後にしつこく

麿赤児氏のインタビュー記事を貼っておきます。

 

1960年代の空気感を

お知りになりたい方はどうぞ。

 

ワタクシはこの空気に憧れた

バブル期の学生でした。

 

そして白石加代子氏と出会うのです。

 

ダメ、本当に終わらない。

はい、強制終了!

 

 

テリー 唐さんって、どういう方だったんですか。

僕は麿さんより6つぐらい年下ですけど

僕らの頃の唐さんは、もうすごいカリスマで。

 

麿 いや、同じですよ。

とにかく犯罪と芸術が紙一重みたいなヤツでね。

 

テリー へぇ。

 

麿 唐と最初に会った時、「ごめんください、さようなら」って書いた

段ボールの切れ端を見せて、

「こういう芝居をやりたいんですけど、どうですか」

って言うから「おもしろいヤツだな」と。

それで7年ぐらい一緒にやったんですけど。

その間に唐の演劇というか、

マインドみたいなものもかなり刷り込まれたし。

そのマインドコントロールが7年して解けたんですよ。

 

テリー あ、洗脳されてたんですね(笑)。

 

麿 まぁ「唐の言うことなら何でもやるぞ」みたいなね。

で、それはそれで成功して、調子に乗ってやってたんですが

ちょっとずつズレが出てきましてね。

 

テリー それはどういう?

 

麿 セリフが多すぎてね。それだとこっちは舌が回らないし、

もうちょっと体で遊びたいのもありましたし。

「ごめんください。さようなら」を言うまでに15分かかるみたいなね。

 

テリー 麿さんらしい。

 

麿 もともと彼は文学のほうが詳しいし、書くのも速くて

ひと芝居、2~3日で書いちゃいますからね。

 

テリー 天才ですよね。

 

麿 それで、ちょっと限界を感じたのと、

僕がやめたあとに小林薫だとか、新しいヤツが入ってきて

その頃には「ロートルは退くべきだ」みたいな雰囲気もありましたし

それでやめることにしたんです。

 

テリー 舞踏の創始者の土方巽さんと出会うのはそのあとですか。

 

麿 いや、唐のところにいる時ですね。

土方さんのところにかわいい女性がいて

「あんた暇でしょ。ちょっといらっしゃい」って言うんで

「俺に気があるのかな」と付いて行ったら彼の稽古場だったんですよ。

 

テリー いいことできると思ったのに(笑)。

 

麿 そうそう(笑)。だけど、とにかく田舎丸出しの人でね。

正月だったんですが、どてらを着て、

わざわざ稽古場の真ん中に七輪を置いて、餅を焼いてて、「食え」って(笑)。

で、僕は東京に出てきてから決まった宿を持ったことがないんですけど

「ここに居ついていいですか」って、居候することになったんです。

 

テリー 唐さんと同じで、魅力があったんでしょうね。

いくつの時ですか。

 

麿 22ぐらいですかね。

でも、居候の代わりにキャバレーのショーに行くんですよ。

当時のアルバイトの時給は100円ですけど、キャバレーに行くと1日2万円ぐらいになるんです。

 

テリー 夢のようじゃないですか!

 

麿 それを土方がほとんど持っていくんですよ。搾取どころじゃない(笑)。

あくまでも芸術のためですから。

ただ僕も純粋でしたから、1000円もらえば十分でしたけどね。

 

テリー 当時の1000円ってすごいですよね。

 

麿 20分踊って1000円ですから。体の鍛錬にもなるし、

どうすれば酔客を引きつけられるかとか、いろいろ考えながらね。

 

テリー そうやって経験を積んで。

 

麿 そういえば、浅草のフランス座でやる時は

(ビート)たけしさんが「おい、前衛が来たぞ」とか言ってたみたいですよ(笑)。

別に顔見知りじゃなくて、チラッとすれ違いでしたけど

「あいつら変なことしてるな。あれ、前衛だってよ」

って言ってたらしいです。

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以上。

もっと読みたいよ、このインタビュー。