宮沢賢治の作品からです。
春と修羅 第二集 より
三四〇
一九二五、五、二五、
あちこちあをじろく接骨木(にはとこ)が咲いて
鬼ぐるみにもさはぐるみにも
青だの緑金だの
まばゆい巨きな房がかかった
そらでは春の爆鳴銀が
甘ったるいアルカリイオンを放散し
鷺やいろいろな鳥の紐が
ぎゅっぎゅっ乱れて通ってゆく
ぼんやりけぶる紫雲英の花簇と
茂らうとして
まづ赭く灼けた芽をだす桂の木
☆
山の緑が生き生きとその生命力を示す季節。
丁度今頃の樹々と、天と、鳥たちの様をスケッチした作品ですね。
私も、鮮やかな緑が溢れる今頃の季節が大好きです。
にはとこ の木は、東京あたりでもよく見かけます。
しろいたっぷりの細かい花が房のように咲きます。
爆鳴銀とは、火薬の一種のようです。
そらの蒼さを爆発の色として、その中を列を為して、鳥たちが飛んでいく。
春のあふれるいのちですね。
紫雲英はれんげの花です。
畠いっぱいに拡がるれんげの花。
花簇 はなむれと読むのでしょうか。
碧巌録にあります。
賢治は碧巌録のこの世界を思い起こしたに違いない。
" 「花簇々錦簇々」(『碧巌録』第12則「洞山麻三斤」頌)
"
はなぞくぞくにしきぞくぞく
【頌】花簇々、錦簇々、南地の竹、北地の木
洞山に、「麻三斤」と答えられた僧が、智門和尚のところへ行って、
「洞山麻三斤と道う意旨如何――洞山和尚は麻三斤と答えられたが、これはいったいどういうことでござりますか」
と尋ねたところ、智門和尚は、
「花簇々、錦簇々、会すや」
と答えられたのである。これもありのままの世界をありのままに見た言葉である。見渡すかぎり花いっぱい、紅葉いっぱいじゃ、と。しかし、その花は刻々と動いて行く、紅葉は刻々と散って行くのである。動くものの中、散るものの中に永遠なる仏を発見しなければならん。智門和尚、そう答えられたのだが、僧には何のことやらサッパリ分からん。
「不会――分かりません」
と答えると、智門和尚、
「南地の竹、北地の木」
と答えられた。南方の温かい地方では竹がよく茂り、北の寒いところでは木がよく茂ると。これもありのままだ。仏という無形のものを表現するのに、有形のものをもって答えておるのである。智門はそう答えられたのであるが、その智門の言葉をここにもって来ているのである。
※ 神奈川県相模原市には、レンゲ畑がまだ残っている。
画像は数年前のものです。
目に見える世界は、諸行無常であるが、実はほんとうの仏の世界は、永久無変なるいのちの世界だというのです。
この美しい新緑の季節、生命溢れる輝きの世界を、どうぞ観じてください。