いつもながらの格安チケットで羽田から飛んで、青森空港。

 

バスで青森の街へ。

新町。アーケードがずっと続いているのは雪国ならでは。

 

次の朝、ホテルの窓から岩木山が見えました!

 

新町商店街の朝。

 

青森駅。新町商店街は、青森駅の正面に伸びる繁華街でした。

 

駅のすぐ横には、ねぶたの家ワ・ラッセ。

残念ながら、まだ開いていません。それにしても特徴的な建物です。

 

その向こうはすぐ港で、港の上に大きな橋が架かっていました。

青森ベイブリッジ。

 

橋の下には、青森駅のホームが海へ向かって延々と伸び、跨線橋があります。

青函連絡船へと乗り換えるためのホーム。

私も昔一度だけ青函連絡船に乗ったので、ここを歩いたはずです。上野発の急行・八甲田から、乗り換えたのは八甲田丸だったか羊蹄丸だったか。

 

ホームには切符がないと入れないけど、跨線橋は入れました。

ホームの先っぽから、この階段で、跨線橋に登ってきます。

窓の木枠が、時代を感じさせます。

 

跨線橋の上から見た、青森駅。

終着駅の風情を感じさせます。

 

ホームが終わっても、海へ、まだ線路はのびています。

(あとで、先っぽまで行ってみよう)

 

その前に。

青森駅ホームから跨線橋を通って、東側へと降りれば、青函連絡船に直通。

八甲田丸が、今は博物館となって係留されています。

まだ営業時間外で入れないのが残念。

 

この日の海は静かだったのですが、波で船が揺れると、ゴォ~ン…と船体が桟橋にぶつかる音がして、ギシギシとロープが揺れていました。

ちょっと錆びも出てるし、壊れないか心配になっちゃいますが、こうしてそ今もの姿を見られて嬉しいです。

 

青森駅からそのまま、連絡船へとつながる線路もありました。

貨車ごと連絡船に積み込んでいたのですねー。知らなかった。

 

近くには、八甲田丸の大きなスクリューも展示されていました。

 

戦時中は、青森の町も空襲にあい、連絡船も爆撃されたそうです。

終戦直前の7月14日~15日に爆撃を受け、12隻すべてが沈没、あるいは航行不能になり、300人以上が死亡。

7月28日には青森の街が空襲を受け、死者700名以上。

そんな歴史があったのか…。

青函連絡船楽しかった♪なんて言っていられるのも、たまたま平和な時代に生まれたからですね。

 

函館から来たフェリーが、フェリーターミナルに入っていきます。

(青森フェリーターミナルは、ここから5キロほど離れた場所です。)

 

 

八甲田丸からさらに、海へと突き出していた埠頭の先へ。

 

横には線路が続き、回送列車が停まっていました。

 

街のほう。あとでベイブリッジを渡ってみよう。

 

三角ビル・アスパムもよく見えます。後ろは八甲田山。

 

埠頭の先っぽ。線路もここまで。

 

埠頭の先っぽに、何人も人がいました。

釣り客かと思ったら、何故か皆、沖へカメラを向けている。

なんだろう?と思ったら、大型客船が近づいてきました!

 

クイーンエリザベスのようです。

フェリーなんかと比べると、桁違いの大きさ。びっくりしました。

 

 

クイーンエリザベスを横目に、ベイブリッジを渡ってみます。

 

ベイブリッジの上から、岩木山!きれいです。

 

青森の街のむこうには八甲田山。

 

ベイブリッジを降りてたら、クイーンエリザベスが、こっちへやってきました。

アスパムの先にある、国際クルーズターミナルに入るのでした。

(この後レンタカー店に行ったら、クルーズ船の旅客で行列ができてて驚きました)

 

青函連絡船の港の近くの町並み。

古びた家や商店が立ち並びます。道は広く信号は多いけれど、通る車は少ない。

 

青函連絡船があったころは、栄えていたのでしょう…。

 

津軽の中心は、歴史的には弘前。青森が港町として大きくなったのは、江戸時代初期以降のようです。

県庁所在地となったのは、青森県が誕生した後で、「津軽」と「南部」のちょうど中間にあたるからという地理的な理由。

中世からの城下町ではないので城もなく、青森港と、隣接する青森駅を中心として、町がひろがっている感じがします。

でも今、青森港に青函連絡船はなく、青森駅に新幹線は入らず(すこし離れた新青森駅に)、青森の街の拡がりかたも、少しずつ変わっていくのかもしれません。

 

 

朝のお散歩を終えて、コンビニで買い物。

青森では、コンビニで、県産のカットりんごが手に入るんですねー。

(でも味はやっぱり、新鮮なリンゴのほうがいい)