四日目(2014/05/25)黒野田~栗原


この日の行程


黒野田-10.9km→駒飼-1.3km(12.2km)→鶴瀬-3.9km(16.1km)→勝沼-3.4km(19.5km)→栗原


黒野田宿


平成26年5月25日、この日も4時起きして三鷹駅発4時58分の電車に乗り、昨日の終着点笹子駅に向かいました。6時40分に笹子駅に到着、JR中央本線の第八甲州街道ガードの右手にあるトンネルをくぐって旧道を歩き、すぐ国道20号線に合流、辰巳沢を越えて進み、左手に笠懸地蔵を確認しました。傍らに甲州街道黒埜宿笠懸地蔵由来書がありました。安政二年(1855)十三代将軍徳川家定の天領期の建立だそうです。


笠懸地蔵先に黒野田宿本陣跡である天野家があります。本陣門脇に明治天皇行在所趾碑。「明治天皇 山梨三重京都御巡幸の砌(みぎ)り 明治十三年(1880)六月十八日 甲州街道黒野田宿本陣に宿泊」とありました。黒野田宿は白野宿、阿弥陀海道宿と合宿で月の十五日までの業務を担当していました。時計06:56:43


本陣先の左に嘉永七年の小さな秋葉山常夜燈を確認、笹子川に架かる黒野田橋の左にある旧黒野田橋を渡った橋の先の普明院にお参り。天正十一年(1583)遠江国乾城主の子天野宮内左衛門内尉景信(黒野田宿天野本陣の先祖)の開基で、阿弥陀海道宿の阿弥陀堂にあった阿弥陀様はここに移されて本尊となっています。毘沙門天像は日本三大毘沙門天又は関東三大毘沙門天の一つらしく、自由に拝観可能ということで硝子越しに覗いてみましたが、ぐっとくる感じはしませんでした。


境内で芭蕉句碑「行くたびに いどころ変わる かたつむり」を確認、門脇で一里塚碑「江戸日本橋ヨリ二十五里」を確認しました。実質は日本橋から二十六里目です。


笹子川に架かる星影橋を渡り、その先右手段上に馬頭観音群を確認、さらに進んで公民館前バス停のところで安政三年(1856)の愛宕山常夜燈を確認、笹子雁ガ腹摺山方面を示す道標に従って進み、Y字路で左の県道212号に分岐し、中橋を渡り、ホタルの一生標識の手前を左折して土道に入り、右石垣の間の草道を進み、すぐ元の県道に復帰、新田沢に架かる山口橋を渡りました。


笹子峠


新田下バス停の先で甲州街道道標を確認、ここから右折して矢立の杉方面に進みます。いよいよここから甲州道中最大の難所笹子峠を登りはじめます。この辺りから携帯圏外になりました。(auのガラケーなので他機種ならつながるかもしれません)時計07:47:00


荒れた舗装路から土道に変わり、木立の中を進み、新田沢の砂防ダムの突き当たりを左に迂回し、林の中の峠道を進んで、いったん県道に合流、そのまま県道を上り、新田沢に架かる美久保橋を渡って進んで矢立の杉入口に到着しました。笹子峠自然遊歩道の案内標識があり、矢立杉まで800mとありましたが、「通行止め」の看板が。途中の橋が崩落しているようです。時計08:24:00


仕方なくそのまま県道で迂回し1.7km歩き、先にある矢立の杉入口へ。時計08:50:00

ここから林の中に100mほど進んだところに矢立の杉があります。根廻り14.8m、目通り9.0m、樹高26.5m、幹は地上約21.5mで折れ、樹幹中は空洞です。山梨県指定天然記念物です。立派なものです。


矢立の杉の先、新しい身代り両面地蔵菩薩とその横のゼンマイ式音声ガイドを確認し、この手前のY字路を左に折れ、谷の中を進み、丸太組の橋を渡り、峻険な尾根道を進みました。思いのほかキツい道です。いったん県道に合流して葛籠折りの道を進むとやがて洋風レンガ造りの笹子トンネルに出ます。昭和三十三年(1958)国道20号線新笹子トンネルの開通により大役を終えましたが、今でも現役です。登録有形文化財です。


笹子トンネルの右にある笹子峠登り口から峠越えに入ります。急な斜面を這うように登ると笹子峠道標がありました。ここが頂上なのですが、さらに右のほうが小高くなっており、ロープが張ってあります。何かあるかと力をふりしぼりロープをつたって上りましたが何もありませんでした。頂点に立ったことは間違いありません。


ここから道標の甲斐大和駅に向かう方向に峠を下っていきます。途中にある天神祠にお参りして山道を下ると、いったん笹子トンネル先の右側に出ます。ここで県道を横断し、向いのガードレールの切れ目から再び峠道に入り、土道を下って県道に近づいたところに甘酒茶屋跡碑を確認、さらに下って林道T字路の突き当たりを左折、林道を進み、50m先の右側に甲州街道峠道道標を確認、浅い沢に架かる木橋で渡り、笹子沢川を丸太の橋で渡ります。この辺り、かなりハードです。雨が降ったら危ないです。雨の日は避けたほうがよいと思います。


さらに進むとT字路に突き当たるので、ここを右甲州街道峠道方面に折れ、階段を降りていくと県道に合流し、ここで峠道が終わります。


合流先を左折、笹子沢川に架かる清水橋を渡り、県道をひたすら歩き、途中で桃の木茶屋跡の標柱を確認しました。ここに三軒の茶屋があったそうです。さらに折り続け、笹子沢川に架かる天狗橋を渡ります。これで笹子峠を越えたようです。なんと峠越えに4時間を要してしまいました。予定より大幅に遅れています。時計11:42:56


橋詰先の右手で芭蕉句碑「秣(まぐさ)負ふ 人を栞の(しおりの) 夏野哉」を確認、駒飼宿に入りました。


駒飼宿


駒飼宿は次の鶴瀬宿と合宿で、月の二十一日からの業務を駒飼宿が勤めたそうです。宿名は、甲斐源氏の牧(牧場)がここにあったことに由来しているそうです。


すぐ先で、富屋脇本陣跡に立つ史跡甲州道中脇本陣跡標柱を確認、その先で渡辺本陣跡に立つ明治天皇御小休所址碑、史跡甲州道中駒飼本陣跡の標柱を確認、その向い、国宝山養眞寺の参道口にある萬霊塔を確認し、風間商店の向いの日影バス停の手前を左折して下り坂に入り、甲州街道駒飼宿標柱を確認しました。ここが駒飼宿の北口です。


坂を下り、笹子沢川に架かる古道橋を渡り、中央自動車道の高架下をくぐった先左手にある石仏石塔群を確認しました。向かって右の石仏は首なし地蔵と呼ばれ、盗賊に斬られ胴体だけが残った六部を供養したものだそうです。


旧道を下って県道212号線のT字路の突き当たりを左折、先の大和橋西詰交差点を左折、国道20号線の左側歩道を進みました。


鶴瀬宿


日川に架かる立会橋の歩道橋を渡り、街道左手に古跡金岡自画地蔵尊碑を確認しました。金岡という大和絵の巨匠がここにあった岩に地蔵尊を描き、時が経って消えたが、水をかけると絵が浮かび上がったという伝説があります。岩は明治四十年(1907)日川の洪水で流失したそうです。


鶴瀬交差点手前で甲州十二関の一つ鶴瀬関所跡標柱を確認、鶴瀬交差点を横断した先の国道20号線沿いで鶴瀬地区碑と甲州道中鶴瀬宿標柱を確認しました。鶴瀬宿は、手前の駒飼宿と合宿で、毎月二十日までの業務を駒飼宿が勤めたそうです。時計12:27:29


鶴瀬交差点向いの筋に入り享和三年)建立の石尊大権現常夜燈を確認、旧道を進み国道20号線突当りを右に行き、次いで八久保沢に架かる鶴瀬歩道橋を渡り、真竜寺先で古跡血洗沢標柱を確認しました。勝頼を裏切った跡部大炊助を家臣土屋惣蔵が斬り、沢で刀の血を洗ったところです。


志々久保急傾斜を過ぎ、国道20号線の右側歩道を進み、正面トンネル手前右手の坂を上り、上り始め右手で観世音菩薩碑を確認、上り切ったトンネル上に聖観音堂の標柱を確認、標柱の向の上りY字路の石段を上り、燈籠の間を通って観音堂に参拝しました。ご本尊は聖観音菩薩で京都清水より移したものと云われ、養蚕の守護神です。観音堂脇に納藁堂があり、柵の中には丸い馬の藁沓が山積みになっていました。


細い崖道の砂利道を下り、下道に合流して下道を回り込み、正面国道20号線をくぐり、左手にある古跡武田不動尊標柱と燈籠の脇の急な階段を下り武田不動尊にお参りしました。


先に進んで共和地区碑を確認、日川渓谷上を進み、旧甲州街道標柱を確認しました。標柱脇に「甲州街道鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶ横吹の道中は往時の面影を今に伝えています」とありました。横吹(共和)集落を抜け国道20号線に合流し横断して右側の歩道を進み、深沢入口交差点に出て、深沢川に架かる柏尾橋手前右のころび石の坂の降り口で馬頭観音を確認しました。天保七年勝沼宿の脇本陣家が中心となって建立したもので、三面に馬頭観音を陽刻した立派なものです。

ころび石坂を下り切ったところで江戸時代の柏尾橋跡を確認しました。柏尾橋は両岸に橋脚をおろした幅十尺(約3m)長さ十二間(約22m)の板橋で、はおよそ十七年ごとに架け替えが行われたそうです。今は、橋はありません。


深沢入口交差点に戻り、県道217号線脇の中腹にある柏尾白山平経塚を確認しました。昭和三十七年柏尾発電所の送水管保護工事中に発見され、出土品は重要文化財として東京国立博物館に保存されているそうです。


現在の柏尾橋の袂にある全く貫禄のない近藤勇之像を確認、柏尾橋を渡り、斜め右の坂の上り口にある柏尾山薬師如来碑を確認、国道20号線を進み、大善寺の手前左に僅かに残る旧道を歩き、すぐ国道と合流し、大善寺を遙拝して過ぎ、柏尾交差点のY字路で右の県道38号塩山勝沼線に入って進み、荻浜園の向にある国見坂標柱を確認しました。元和七年(1621)に甲州道中の往還筋地名と定められたと書いてありました。


県道38号塩山勝沼線の交差点右手にある日蓮宗の上行寺、その向の勝沼氏館跡を確認しました。勝沼氏は信玄の父武田信虎の弟信友の系譜です。


勝沼宿


上行寺と勝沼氏館跡の間あたりが桝形跡で、勝沼宿の江戸口です。時計14:31:49

宿並の上町に入り、甲府タクシーの向かいにある脇本陣跡の標柱を確認、上町交差点を越した右手にある勝沼本陣跡を確認しました。槍掛けの松が残っています。時計14:37:17


中町(現仲町)に入り、勝沼宿仲松屋、三階造りの蔵を確認、下町(現本町)に入り、右手に旧田中銀行社屋を確認しました。国登録有形文化で、経済産業省近代化産業遺産です。明治三十年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられ、大正九年より昭和七年頃まで山梨田中銀行の社屋として利用されたそうです。


先に進んで明治十三年(1880)に造られた勝沼学校跡、勝沼小学校正門口左側にある明治天皇勝沼行在所跡碑、御製歌碑「えびかつら いろつきそめぬ やまなしの さとのあきかぜ さむくなるらし」を確認しました。えびかつらとはブドウのことです。


勝沼宿内で最も急な坂であるようあん坂の碑を確認、先の交差点の左、浄土宗一行山護念寺を確認、勝沼町勝沼から勝沼町等々力に入り、右手にある諏訪神社に参拝しました。鳥居奥左の大ケヤキは目通り4.8m、樹高30m、樹齢三百年と推定される勝沼町最大のケヤキです。境内に地方特有の丸石道祖神がありました。

等々力交差点手前右手にある、自然石と組み合せた文化六年建立の常夜燈と丸石道祖神を確認、先に進んで等々力交差点で道は国道411号大菩薩ライン線に変わりました。

等々力交差点の先に延命地蔵尊を安置する地蔵堂、地蔵堂の前にある文政十三年建立の常夜燈や丸石道祖神を確認、地蔵堂先の萬福寺参道口で杉御坊碑を確認しました。親鸞聖人が逗留した際、使用した杉箸を地面に刺したところ、杉の大木になったという伝説があります。


参道を入り、萬福寺に参拝しました。推古天皇十二年(604)聖徳太子の命により創建。寛元二年(1244)浄土真宗となったそうです。境内に大きな馬蹄石がありました。甲斐の黒駒に跨ってこの地に飛来した太子がこの石の上に駐まったという伝説があります。このほか境内には芭蕉句碑「行駒の 麦に慰む やどりかな」がありました。


白百合醸造を過ぎて甲州市から山梨市に入って進み、その先右手にある建岡神社に参拝しました。推古天皇七年(599)夏の創祀で白山権現とも呼ばれています。


栗原宿


上栗原交差点辺りから栗原宿に入りました。時計16:24:52

右手にある蓮宗の大法寺参道口にある天保二年の題目碑を確認、大法寺の奥にある妙善寺を確認しました。武田家の臣、安倍加賀守勝宝が勝頼と共に自害し、法名が妙善寺殿だったことから寺名を今の妙善寺に改めたそうです。妙善寺参道には鐘楼門があり、三十三観音が並んでいました。


このまま進んで下栗原交差点まできたところで、既に午後5時近くになっていました。当初の予定は今日は甲府まで歩くつもりでしたが、笹子峠で体力と時間を使いすぎたのでせめて石和まではと思っていたのにそれも無理な感じになってきました。やむを得ず、ここから最寄りの山梨市駅に向かうことにし、本日はここで終了としました。


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http://twilog.org/hanagamankaida/date-140525