太田資正(三楽斎)が、その後半生で身を寄せた常陸の戦国大名・佐竹義重。
鬼佐竹と呼ばれたこの猛将のことを知らずして、太田資正の後半生を理解することはできません。

ということで、佐竹義重の年表整理第2弾です。(第1弾の永禄年間編はこちら

例によって、リファレンス本は、記述が詳細すぎて“流れ”が分かりにくい困った大作、近衛龍春氏の『佐竹義重』です。

【佐竹義重 関連図①】


佐竹義重の居城・太田城(舞鶴城)から、
・南陸奥攻めの拠点=寺山城
・小田氏攻めの拠点=片野城(太田三楽斎)
は、ほぼ当距離。

むしろ、宿敵・那須資胤の居城・烏山城の方が太田城(舞鶴城)に近い。

【佐竹義重 関連図②】


強敵・蘆名氏の居城・若松城は、遥か北の会津。
後に佐竹義重は、蘆名氏領国を勢力範囲に入れるが、その際の佐竹氏領国が非常広大であることがわかる。



■元亀元年(1570年) 4月~(4月に改元)
近衛龍春『佐竹義重』、p.138~146(8頁分)

・4月、佐竹義重、那須資胤攻め。資胤居城付近の根古屋城を焼く
・5月、義重、小田城に入り、同城を三楽斎父子に与える
・5月、義重、赤坂城に白川結城氏への警戒を促す
・6月、義重、南陸奥の小川氏に赤館城攻めを促す
・7月、義重、那須資胤の武茂城攻めに応じて反撃。勝利
・7月、嫡男・義宣誕生
・8月、義重、那須氏方の下郷要害を落とす
・8月、義重、紀伊守を名乗る
・8月、佐竹三家の一つ南家の南義尚(義重実弟)死去。以降、佐竹三家体制が崩れる
・9月、蘆名氏が那須資胤と連携を画策

武田、北条、上杉の名前が出てこない元亀元年。

(・・・と書きましたが、調べて見ると、元亀元年は、武田信玄が北条氏攻めを繰り広げ、北条氏が追い詰められていた年でした。
ー4月、信玄、駿東郡・伊豆を攻める
ー8月、信玄、再度、駿東郡・伊豆攻め
ー10月、信玄、西上野を攻める
ー12月、信玄、駿東郡を再侵攻

武田と北条が抗争を繰り広げたことで、佐竹義重は周辺のローカルな敵達との戦いに注力できたようです。)

佐竹義重は、那須資胤を攻めて、初めて明確な形での勝利を挙げます。
嫡男・義宣も生まれ、地盤固めに終始した一年(9ヶ月)だったと言えるかもしれません。

また、太田三楽斎は、小田氏治から奪った小田城の領有を佐竹義重から正式に認められ、ひとかどの中規模領主に返り咲きます。


■元亀2年(1571年)
近衛龍春『佐竹義重』、p.147~178(31頁)

・2月、義重、蘆名氏・白川結城連合を攻めるため寺山城に入る
・2月、義重、側近の和田昭為の葦名氏との内通の密告を受ける
・3月、義重、和田氏内通に関する密告者への注意を促す
・4月、蘆名・白川結城連合、南進
・4月、足利藤政、書簡にて義重に、北条氏の関宿攻めへの対処を要請
・5月、義重、蘆名・白川結城連合と和睦
・5月、義重、北条氏照・氏邦迎撃のため宇都宮へ
・5月、北条氏照、下妻城の多賀谷氏を攻める。義重、北条勢の多勢を見て後詰めを出せず。多賀谷氏、単独で北条勢を撃退。
・5月、退却する北条勢を義重が追撃し大勝。「鬼佐竹」「坂東太郎」の異名を得る
・7月、蘆名氏、和睦を破り南進
・7月、義重、側近・和田昭為の内通を確信し、一族を皆殺しに
・7月、義重、蘆名氏を抑えるべく寺山城に入る
・8月、義重、蘆名氏に攻められ敗れる
・10月、北条氏康、死去
・11月、上杉謙信、越山
・11月、小田氏治、謙信に佐竹討伐を進言
・12月、北条氏政、武田信玄と甲相同盟を結ぶ

北から蘆名・白川結城連合に攻められ、南からは北条勢が北進。
元亀二年の義重は、二正面作戦を強いられて苦しみます。

しかし、その中で義重は、北条氏撃退に奮戦。
異名「鬼佐竹」「坂東太郎」は、この時、義重のものとなります。

ただし、「鬼佐竹」の異名誕生は、名場面のはずなのに、近衛龍春氏の書き方は例によって極めて淡白(笑)。もはや、その淡白さを味わうのが、近衛氏のこの作品の楽しみ方とすら言えるかもしれません。

一方、対北条氏では勝利を得た義重も、蘆名・白川結城連合には翻弄され続き。
蘆名止々斎という男、やり手ですね。

越山してきた謙信に、小田氏治が「佐竹は武田信玄と結んでいる」と、佐竹討伐を進言しているのは面白いと思いました。

近衛龍春氏の佐竹義重は、武田信玄と連携したとは描かれませんが、実際にはそういう動きがあったとしてもおかしくはありません。
前々年に、小田氏治が攻撃を仕掛けてきたのも、(比企さんが前稿のコメントで示唆しくれたように)北条氏が、武田と結んだ佐竹を牽制するために小田氏を動かしたと解すれば、納得がいきます。

それにしても、小田氏治という男は、本当にしぶとい。


■元亀3年(1572年)
近衛龍春『佐竹義重』、p.179~199(20頁分)

・1月、甲相同盟締結を、三楽斎の息子・梶原政景の家臣が義重に報告
・1月、甲相同盟が北関東の諸将に知れる
・1月、北条氏邦、太田氏房が小山を攻撃
・2月、謙信、小田城を小田氏治に返すよう義重に要請。義重、拒否
・6月、北条方だった下総結城氏、北条氏が小山を攻めたことに反発。義重と同盟
・6月、積年の敵・那須資胤が義重に和睦を求める
・7月、蘆名氏、白川結城氏とともに佐竹方の寺山城を攻める。義重、鉄砲の活用でこれを撃退
・7月、蘆名氏・白川結城氏、和睦を申し出。太田三楽斎が取次。
・8月、義重、赤館城を攻めるが落とせず。
・9月、那須資胤、義重との和議を破り、葦名氏・白川結城氏と同盟
・10月、武田信玄、京を目指し西進開始
・12月、下野の皆川氏、主君の宇都宮氏に背き、北条氏に寝返り
・12月、義重、宇都宮に入る
・12月、佐竹・宇都宮連合、下野国多功で北条勢と合戦。太田三楽斎親子の奇襲を契機に佐竹・宇都宮連合の大勝に終わる

武田との同盟を復活させた北条氏が、北関東攻めを本格的に再開する年。
迎え撃つ北関東勢は、佐竹義重を中心にまとまり、これを見事に撃退し、大勝します(多功の合戦)。
また、義重は、これまで苦戦してきた葦名・白川結城連合にも勝利。
北関東の盟主として、存在感を放ちます。

「越相一和」で北関東勢の信頼を失った謙信と、新たな盟主として頭角を表す義重。
そのコントラストは、実に鮮やかです。
関東における謙信の時代は、この時、終わったのかもしれません。

緻密すぎ、詳細すぎる近衛氏の記述スタイルでは、これが伝わってきませんが・・・(笑)。

我らが、太田三楽斎親子も活躍します。
①甲相同盟締結の情報をいち早くキャッチし、義重に報告
②蘆名・白川結城連合との和議を調停
③多功の合戦での奇襲の成功
しかし、これらの活躍(特に多功の合戦での奇襲の成功)は、史実なのでしょうか?

気になるところです。


■元亀4年(1573年)~7月 ※7月下旬より天正に改元
近衛龍春『佐竹義重』、p.199~202(3頁分)

・1月、佐竹・宇都宮連合、南摩で皆川・壬生勢と戦う
・2月、佐竹・宇都宮連合、この頃までに皆川方の城を11落とす
・3月、佐竹三家の東家当主・義喬死去
・3月、北条氏政、葦名氏に佐竹挟撃を提案
・4月、武田信玄、死去
・7月、織田信長、将軍・足利義昭を屈服。元号、天正に改元される

前年の大勝の余勢のまま、皆川氏を攻める佐竹・宇都宮連合。
佐竹氏の動きを止めるために、北条氏政が会津の葦名氏との連携を図っています。

そして、今日を目指して西進していた武田信玄の死。武田・上杉が最強という時代が終わり、信長の時代がやってくることになります。



天正年間は、また後日に。

天正年間は長いので、三回くらいに分けることになりそうです。


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