
『汽車の中の悲しめる青年』
削進を鑑賞する場合、作品とタイトルは通常、密接な関係があるという前提で作品に臨む。
だから作品の中に『汽車の中の悲しめる青年』を探し、無理にもそうであろう部分に協調する。
作品は人体(人間/性別不能)の連鎖あるいは人体の分割であり、人体というにはその質感は肉感を伴わず、紙もしくは板のように見える。もちろん見えると言うに過ぎない。
頭部と思われる位置が俯く姿勢に合致しているため、悲しめる青年の雰囲気に抵触する。即ち形態は否が応でも何らかの様相を呈してしまう。意図するとしないに関わらず。仮に俯く姿勢(線条)ではなく、反対に反る形態でも悲しめるを感じることはでき、人はそこに記号が付記してあれば、その記号の意図に副うように心理は傾くようになっている。
汽車は描かれなくとも、「汽車の中」といえば汽車の中なのであり、「汽車の中の悲しめる青年」といえば、汽車の中の悲しめる人間として受け止め、その条件を前提に作品を関連付けていく。そのように脳は学習されており他の選択があるにもかかわらず、大方は記号を信頼し納得してしまう。
作品に描かれた光景は立体的に再生しようと試みても不可能である。
平面(二次元)に描かれた光景は、通常三次元を基に描いているという思い込みがあるが、この場合、線を辿っていくと手前のものより後ろにあるものが手前に出てくるという微妙な混雑がある。
要するに復元を拒否する画と言ってもいいかもしれない。
『汽車の中の悲しめる青年』は、《詩》である。自力ではない外からの力(天命)で突き進んでいくような不安を抱えた自分自身の心情吐露のつぶやきが聞こえる。
写真は(www.taschen.com)より