「悟り」に惹かれたワケ | 深層意識の力を利用し、夢を実現する

「悟り」に惹かれたワケ




いらっしゃいませ、マスターの濱田です。


このブログでは、わたしがどのようにして

「悟り」という概念と出会い、

目が覚める経験をしていったか、

その経験談を書かせていただいています。


これから目が覚めていく方、

またもう既に覚めつつある方の

一助になれば幸いです。


これまでの経験談は、テーマ内の

悟りへと誘われた道 」をご覧ください。



わたしは「悟り」という概念を知り、

なぜそれにとても惹かれたのか?


当時はそんなことはわかりませんでした。


ですが、今振り返ってみるとそれは、

ある種仕組まれていたようなもの

だったように感じます。


人生って、ホントにすごくよく出来ているんだなって、

今は思うのですが、当時はそんなことは

わかりませんでした。


ですが、なにか懐かしい感覚のようなものは

はじめから感じていました。


というのも実は、わたしが通っていた高校が

仏教系の学校だったのです。


仏教系といっても、お坊さんになるような人が

行く学校ということではなくて、


よく女子高などでもキリスト教系の

学校とかあったりするじゃないですか。


あんな感じの、仏教系の男子校だったんです。


ですので、禅とか悟りという言葉に触れたとき、

どこか親しみがあったというか、

懐かしい感じがしたのかもしれません





授業の中には週に1度、

仏教の授業なんてのがありました。


実はその授業がとても面白かったのです。


なにが面白かったかというと、

その内容が、「このように生きなさい」

というような「戒律」とか「教え」みたいな

「概念」を教え込まれるものではなくて、


お釈迦さんこと、ゴータマ・シッダールタが、

どんないきさつで、どんな生き方をしたのかという

内容だったのです。


そしてその生き方は、わたしにとって何処かとても

共感するものがありました。


彼は人から教えられた「概念」を

聞いて納得するのではなく、


「本当のことはなにか?」ということを、

実際に体験し、その経験を通して理解する、

体得するということをした。


その生き方にとても共感するものがあったんですね。



B'z というバンドの「スプラッシュ」という曲に、

「観念では物足りない、手触りが欲しいだろう」

という歌詞が出てくるのですが、

まさにそれだなと思います。


ちなみにB'z には、悟りへと誘う深い深い

歌詞の曲がたくさんあります。


調べてみると驚かれるかもしれません。




人が言っているからとただ鵜呑みにしないで、

実際に自分で体験し、自分で確かめる。


そのことがとても大切なことと、

当時も感じていたようです。






その仏教の授業の内容が、とても面白かったせいか、

けっこう「なんでそんなこと知ってるの(笑)?」って、

友人たちから笑われたりするネタもあったりしました。


たとえば、「お釈迦さんには、

はじめ師匠だった人たちがいて、

その人たちはアーララ・カーラマと、

ウッダカ・ラーマプッタっていう名前なんだぜ」

みたいな(笑)。


なので友人たちからは、「なにそれ?

お前、変わったこと知ってるなぁ(笑)」って

よく笑われたりしてました。


ちなみにシッダールタは、この2人の師匠のもとで

修行をしたのですが、そこでは彼がホントに望む

真理へといたることは出来なかったそうです。


「ううん、違う、これで終わりじゃない」って、

彼にはそのことがわかったそうです。


わたしが彼に「おお!」と共感せずに

おれなかったのが、


当時誰もが「これが真理へと至る正しい修行法」

と信じていたというか、信じ込まれていた、

苦行という修行法を「これでは悟れない」と

気づいてやめたというところでした。


彼は何年も何年も、みなが信じ込んでいた、

「これが正しい修行法」というものを、

実際にやり続けていたわけですが、


やってもやっても、いつまでたっても、

悟りに至ることができないということを、

身を持って理解し、


そして「これでは悟れない」って、

体験から気づいたといいます。


そしてみなが鵜呑みにしていたことを

やめて、自ら真理へといたる道を

見つけたそうです。


その誰もが信じて疑わなかったことが、

実は「それではうまくいかない」ということを発見し、

手放した。


そのことに強く惹かれたように思います。


なぜ惹かれたのか、当時はわかりませんでしたが、

わたしの中の「はじめから知っていた」なにかと、

共鳴しあったのかもしれません。


シッダールタは、周りのみなが鵜呑みにして

信じていた思い込みという「概念」が、

実は本当ではないと理解し、やめたわけですが、


でも、周りの人たちにはそんなことはわかりません。


なので彼は、周りの修行者から、

「彼は落伍者だ」と捉えられたそうです。


それまでの常識、概念を打ち壊し、

再創造する人たちは、今も昔も

そのようなところを通るものなのだなぁと

感じさせられるものがあります。


そしてわたしは、悟りを求め、

禅寺へと向かったのでした。


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