元スカウト部長・平野勝哉さん引退 | Field of Dreams

元スカウト部長・平野勝哉さん引退

(2010年01月23日山形新聞より)

【強化支えた平野氏が退任 若手発掘など尽力】

07年シーズンから若手選手の発掘などに尽力してきた平野勝哉チームマネジメントグループマネジャー(67)の退任が決定し、22日の記者会見の席上、ファン、サポーターに発表された。山形加入以前はJ1鹿島に所属し、MF小笠原満男、MF中田浩二らの獲得に貢献した日本を代表する名スカウト。山形では高校生や大学生選手の情報を提供する役割を果たしていた。チーム強化を陰で支え、「この仕事をやって35年。多いときで年間300試合を見てきた。気力の限界を感じ、責任ある仕事を全うできる自信がなくなった」と話し、「今後、おそらくこの仕事に携わることはない」と引退を宣言。「3年間、ありがとうございました。(住まいのある)茨城から山形を応援していきたい」と感謝の言葉を述べた。
Field of Dreams-元スカウト部長平野勝哉さん引退
新潟放送(BSNラジオ)のサッカーコーナー「オレンジウェーブ」で、今月平野さんのお話が3週にわたって放送されました。是非肉声でお聞き下さい!!

鹿島での平野さんの最後のお仕事は内田篤人をスカウトしたことだそうです。

(第1話)

http://www.ohbsn.com/newsna/ow0114.mp3

(第2話)

http://www.ohbsn.com/newsna/ow0121.mp3

(第3話)

http://www.ohbsn.com/newsna/ow0128.mp3


平野さん、長い間お疲れ様でした!!


健康上の理由で今期(3月)で退任する海保理事長も山形サポーターから『おやっさん』と呼ばれるほど慕われ、退任の報が流れると反対署名運動が起こるほどでした。鹿島出身の方々がJ他チームの礎となって尽力され、そのチームのサポーターに別れを惜しまれるしょぼんことは鹿島サポーターにとっても誇りです!!鹿島から移籍した選手が活躍することも含めて、『鹿島ブランド』は健全な形で成長していますチョキ


最後に平野氏のアントラーズ時代のインタビュー記事を記録としてここに留めて置きます。(SOCCER CLICK SPECIAL intervew 聞き手=吉村憲文氏)


ここ数年、次々と高校の有望選手を獲得、しかも今年はナンバーワンの評価を得た東福岡のDF金古選手を獲得した鹿島アントラーズ。今年は下部組織の鹿島ユースからも大量5人をトップ昇格させるなど、ユース年代の選手発掘と育成でも大きな注目を集めている。
 その鹿島で新人選手の獲得に辣腕を振るうのが平野勝哉・チーム統括部スカウト部長である。前身の住友金属時代からコツコツと積み重ねてきた経験で、鹿島黄金期の影の立役者とも言われる平野氏。しかしそのスカウト活動の実態を知る人は意外に少ない。そこで今回は、スカウトとは一体どんな仕事なのかを平野氏自身に伺った。平野氏は「あくまでアントラーズと私の場合」と前置きし、お話しいただいた。
■日本人選手を中心にチームをつくれるようにならないといけない

**

 注目を集めている鹿島の新人補強戦略ですが、平野さん自身の活動を含めどういう形でチームの意思統一がなされているんでしょうか?


平野   私自身は「スカウト担当部長」というポジションなんですが、クラブの中でいうとチーム統括部というのがあって、その中のスカウト部なんですよ。スカウト部というのは、チーム統括部の1セクションであって、そのチーム統括部というのが他のクラブでいう強化部であったり育成部であったり、いろんな部署を包含しているのです。チーム統括部の方針の中で今シーズンどういう強化をするかという方針が出るんです。
 また、年度ごとのチーム補強とは別に、その前提となる大きなチームの方針があります。極端に言えば、日本人選手だけでチームを構成できるように、近い将来していかないといけないと思っています。もちろん今すぐ日本人だけでというわけには行きません。ただビッグネームの外国人選手に関しては移籍金の高騰で獲得は大変です。レオナルド(ACミラン)も日本に帰ってきたいと言ってはいますが、イタリアから買い戻そうとしたら10億円くらいのお金を用意しないと無理ですから。そのへんをジーコを含めて話し合うと、彼も日本人を中心にしてチームづくりをしていかないといけないと言っています。そこで、高校生を中心にした若い年代でチームをつくり直して行くようなことを考えているわけです。
 まず、チームの強化方針と、保有している選手とを照らし合わして、どこがウィークポイントかを出してみます。そこで去年は中盤、それと左サイドバックが欲しいという結論を出して活動し、おかげさまで声を掛けた選手がで来てくれました。
 99年の補強の中心は「秋田に次ぐセンターバック」という方針を出しました。そこで高校ナンバーワンは誰かと検討し、やはり金古だろう、となったんです。FWも欲しいという意見もあったのですが、これはたまたまうちのユースに小林というのがいましたんで、センターバック優先ということになりました。
■選手の「向上心」は高校の指導者が一番知っている
**  1年間の活動期間で捉えると、どのように選手獲得が行われるんでしょうか?

平野

 毎年3月、4月の高校のフェスティバルの時期が発掘であり見極めの期間です。ここ2年くらいの例でいうと、5月くらいにターゲットを絞った選手に対してオファーを出します。場合によっては実際にクラブでトップと一緒に練習してもらいます。9月くらいまでに密着して追いかけます。それがこちらの話を理解してもらう期間ですね。9月には答えが出ますから、その後は選手が卒業までの期間中にどれだけ頑張ってくれるかを継続して見るわけです。
 それと毎年春先は次世代の発掘、見極めの時期でもあります。春先はトレセンである程度の情報はありますが、前年の上級生が出ていったあとで我々が知らない選手が多くポジションを取って出てくる可能性もありますから、見極めが難しいんです。「あぁ、こんな選手もいたのか」ということもよくあります。ただ、春先といっても雪のある地域はボールを蹴っていないですから、すぐに判断をしてはかわいそうです。こうした地域性は十分考慮します。
 大学生も春のリーグ、大会あたりで一通り見てみます。ただ高校生を多く見ますので、大学生は見極めが遅くなることがあります。


 
 
**  高校のグラウンドに行かれることも多いかと思いますが、例えば金古選手のスカウトで東福岡高校に行っても、そこでお目当ての選手以外の選手が目にとまることもあるわけですね。

平野   それはありますね。確かに東福岡は一番多く通った学校ですから。控えも含めて30人くらいの顔とプレーは一致しますね。ただ、こちらから実際にオファーするかどうかは行き着くところはその選手の向上心ですから、ゲームを見てるだけではわからないですよ。本当のところを知っておられるのは先生ですからね。
■説得のとき「おいしいこと」ばかりを並べ立ててもだめ
**  「スカウト活動」という言葉からすぐに思い描くイメージはプロ野球のスカウトです。それは日本中を歩いてダイヤの原石を探し出すというイメージなんですが、サッカーにおけるスカウト活動というのはどういうものなのでしょう。
 
平野   「説得」でしょう。スカウトとは当人、親、指導者に対する説得が仕事です。サッカーに関しては幸い「トレセン制度」があって、どの地域にどういう選手がいるか、だいたいはわかります。もちろんトレセンに入っていない選手もいますが、おおよそのめぼしい選手は把握できます。そういう選手を中心に追いかけてターゲットを絞っていきます。
 後はこちらの熱意を見せて、いかに納得してもらうかというのが今のJのスカウトの大きな仕事になると思います。そのためにはクラブに来てもらって、クラブの実体を知ってもらうことも大切です。私の個人的な信条としては、「おいしいこと」ばかりを並べ立てて誘うのではなくて、クラブの方針と自分の熱意を納得してもらことが大きな仕事ですね。嘘を言ってもわかってしまいますから、騙すようなことはしません。幸い私は親御さんや先生方と年齢が近いですから、若いスカウトの人よりは少しだけ有利であるとは思います。去年は、金古の親御さんとよく話をしましたね。
■新しい「契約形態」をきちんと説明することから
**  Jリーグのバブル的な人気の時代にくらべ、最近はチームの経営状態も取りざたされることが多くなり、選手の方にもシビアにものを見るようになってきたと思うんですが。選手の意識は変わってきましたか?
 
平野 

 契約形態が変わってきたのが今年からですから、選手と言うより、親御さんの意識が変わってきたという気がしますね。選手は「C契約」から始まって、プロになる「A契約」に行くんだよという仕組みを実感できない感じですね。この制度が何年間か続いた上でなら別ですけど、まだピンときていないんじゃないでしょうか。世の中の仕組み自体が理解できていないでしょうからね。

 ※C契約とは俗にトレーニー(練習生)契約と呼ばれる。年俸の上限が480万円で、今年の新人はこれが適用される(ただし下部組織出身者は除く)。公式戦で450分以上の出場を果たして初めてプロ契約のA契約(年俸上限1000万円)に切り替えることができる。またこれの中間にあたるB契約もある。

 
 
**  金古選手に関してですが、高校の先輩の本山選手たちがだいたいいくらくらいもらっているかを知っているでしょうし、C契約の話などは平野さん自身からされたわけですか?

平野 

 C契約については話をしました。最初は考えている様子でした。450分出場できないとA契約できないという説明に対して「450分ですか・・・」と、彼がすぐにゲームに出て時間を稼げるチームではないというイメージを持った感じはしました。でも何度か会って話している間に、「それにはこだわりません」というふうに変わりましたね。代表クラスの選手が多くて、自分の向上のためにいい環境だと言ってくれました。


鹿島アントラーズ・平野スカウト担当部長から、スカウト活動の一端を伺うことができた。スカウトマンが何を考え、何を選手に訴えているのかが、平野氏の話からイメージできたのではないだろうか。今回は平野氏のプライベートに関するお話も伺った。それは日本リーグ時代からJリーグに至る日本サッカー界の変遷を映す鏡とも言えるものだった。

■住友金属時代からのスカウト業、年の半分は家にいない

**  平野さん自身の個人的な話を伺いたいのですが、年間を通して家に帰られるのはどれくらいなのでしょうか。

平野   97、98年でいえば、外泊率が45パーセント超えてますね。単純計算すれば半分は家にいませんね。他のスカウトの方も似たようなものでしょうけれど。ただ鹿島という地域性を考えると、現場に前の日から行って泊まらないといけなかったり、その日のうちに帰って来れなかったりしますから。でも、多かれ少なかれプロ野球とかでもこの仕事をしている人はこんなものでしょう。


**  こういう生活が何年も続いてるわけですよね。ご家族はそれが当たり前になってるんですか。

平野   そういう理解をしてくれていると思っていますが、子供が小さいときには女房はそれなりに苦労もあったと思います。今は子供が独立して家に女房ひとりですから、それなりに言いますよ。「またいないの?」「そんな人は世の中にいっぱいおるやろ」「私のまわりにはいない」とかね。ハハハッ(笑)。子供はオヤジが土日いないというのが当たり前になっていましたけどね。


**  今でこそ鹿島アントラーズはサッカー界のトップチームになりましたが、前身の住友金属の時代から同じお仕事ですね。ご苦労も多かったのではないでしょうか。

平野   そうですね。確かに辛かったですね。もともと私は大阪出身で、チームも大阪にありました。それが鹿島に移って来たときに、チームと地域の友好関係をサッカーを通してはかりたいという考えがありました。それとサッカー部はクラブとしての実績が住金の他のスポーツチームに比べてて少なかったですし、何とか社内のステータスを上げたかったですしね。そこでマネージャーみたいな仕事を始めました。確かに時間はかかりましたけど、大阪のチームを鹿島に移したことで結果としてアントラーズ誕生の布石にはなりましたね。それといろんなタイミングが良かったですね。地域を活性化しようとか、住金がもっと地域と密着しようとか。そういう要素がひとつになった結果ですね。たしかに住金時代は選手がなかなか来てくれませんでした。


**  大阪から鹿島に移ったのはいつですか?

平野   昭和50年、1975年のことです。それまでは事業所が幾つかあって選手が分散していました。それを一カ所に集めて練習しようということになったのが鹿島でした。当時はまだまわりに何もなくて日没即夜中で(笑)、交通の便も悪かったですから、関東の大学でもレギュラークラスの選手は来てくれませんでしたね。高校生も進学志向でした。そこで北信越、東北と行った地域によく出かけたんです。その頃の知り合いの方がまだたくさんいらっしゃって、一県に一人はすぐに情報をくれる人がいます。それが僕の財産になっていますね。
■選手はプロというより、むしろ「社会人」として生きていかなければならない
**  そうやって長きにわたって日本のサッカーをご覧になってきて、ユース年代の実力は上がってきていますか。

平野   はい。間違いなく。こう言っては申し訳ないんですが、昔のDFは前を向いたらボーンと蹴るだけだったのが、今はキッチリとパスをつなぐ意識があって、実際にそれをします。それがピンチを招くケースもありますが、全国的に「つなぐ意識」ができていますね。


**  ユース年代の現場というと今までは高校がそのすべてに近かったんですが、今はJクラブのユースができています。高校の指導者の方に少なからず「Jのユースに選手を持って行かれてしまう」という意識を感じるのですが・・・。

平野   この問題については、お互いのいいところを活かして共存共栄でやって行かなくてはいけないと思います。いい素材を集めて下部組織で育てたいというのはありますが、一方では、有望な中学生を引っ張ってきてというのは避けようと話しています。これは高校で我々以上に情熱を燃やして、家庭を犠牲にしてまでも選手指導をされている指導者の方もいらっしゃいますから。それに全国に高校は4000校あるのに対し、Jクラブが抱えられる選手数は本当に少ないですから。そういう「分母」の違いから言っても、いい素材は高校にたくさんいるわけですからね。ただ練習環境、グラウンド、指導者の数、それにメディカル・ケアなど、クラブが学校に対して優っている部分もあるわけですから、それはそれぞれの特長ですね。
 ただ我々にできないのがサッカーを離れた部分の指導ですね。学校の先生は教育者ですから。そこにはまだ自信がないですね。特に親元とを離れてクラブに来るというようなケースが今後は増える可能性がありますから。それに選手が全員プロになれるわけではないですし。プロというよりも社会人として生きていかなくてはいけないですから、常識、礼節が大切です。学校の先生が素晴らしいのは、クラブが面倒を見るのはトップクラスの20~30人だけですけど、学校は選手のレベルの差が大きい中で、多いところでは100人くらいの選手を抱えるわけですからね。そういう選手の進路の指導までされていますから。サッカーの愛好者を増やすという意味でも学校の役割は大きいですね。
■「お世話になります」の一言が心から嬉しい
**  平野さんがスカウトの仕事をしていて「本当によかった」と思える瞬間はどんなときですか。
 
平野   それはスカウトに行った選手が「お世話になります」と言ってくれた時ですね。熱意というか気持ちを汲み取ってもらえて、長い時間をかけて話してきたことの結果が出るときと言うんでしょうか。もうひとつは、仕事の中で色んな人と知り合いになって人間の幅が広がることです。そりゃ酒呑んでバカな話をするときもありますけどね
 
 
**  選手を獲得したときに今度はチームの指導者に預けることになりますが、指導者によっては「それ以上のことをしないでくれ」という人がいたり、逆に「精神面で平野さんが選手の相談にのってやってくれませんか」という人もいると思います。平野さんの中で選手との線の引き方というのはどういうものなのでしょうか。
 
平野 

 僕はそこは完全に割り切ってますよ。僕らの仕事は契約書に判を押すまで、そこから先は現場というふうに。現場には日本人の指導者もいますし、外国人の指導者がしない躾けは彼らに頼んでいます。僕らは親御さんにその選手の情報とかは伝えますが、直接には手を離れたという気持ちでいます。

 最後の言葉は平野氏の本音であると同時にクラブ指導者への気遣いだと思う。実際には平野氏が若手選手を食事に誘い、多くの悩みの相談に乗っていると選手たちは話してくれた。言葉とは裏腹に滲み出る人柄、人生の年輪を重ねたものだけが醸し出す安心感とでも言うのだろうか。選手を大きく包む包容力と10年先を見据えた確かな眼。選手にとっては厳しくも優しい「平野さん」だからこそ「お世話になります」という気持ちになれるに違いない。
 今年もこれから高校サッカーシーズンは本格化していく。その中で何人かの有望選手は平野氏ら各チームのスカウトに自分の人生を託すことになる。本人の努力抜きに語ることはできないが、大きな責任がスカウトの肩にのしかかる。スカウト活動の成否が将来のチーム成績と大きく関わっていることは言うまでもない。
 これを読んだ皆さんがもし近くの高校で行われるゲームに足を運んだ時、周囲を見回してみてほしい。意外とあなたのそばにJのスカウトがいるかもしれない。きっと今日もどこかで熱い視線がダイヤの原石に注がれている。 
(おわり)