もーちょっと後にしようと思ったけど、
今日書いておきたくなった。

11/29が近づくにつれて、
頭の中は14年前に遡る。

あたしのたったひとりの兄弟である、
お兄ちゃんが空の上に旅立った日。

脳腫瘍と10年、長いお付き合いをして、
短いながらに人に恵まれた濃い人生を送ったお兄ちゃん。

心がからっぽになった14年前。
だけどいま、こんなにたくさんの人に恵まれて、
パニック障害って病気を抱えてしまったけど笑顔いっぱいに過ごせるのは、
お兄ちゃんがくれたプレゼントだと思ってる。

だって、笑顔でいることの素晴らしさを教えてくれたのは、お兄ちゃんだから。
そんな重い病気にかかっても、いっつもニコニコしてて、前向きだったもん。

入院して、手術の前後はお母さんがつきっきりだったから、
おばあちゃんがあたしの母親代わりをしてくれて、
学校が休みの日は、バスに乗せて病院まで連れてってくれた。

自分で行けるようになってからは、
行く前にお兄ちゃんが好きな肉まんを買って持っていった。

お昼ごはんを買いに病院の裏口からコンビニに向かう途中、
真上が病室だったから、いつも見上げるとお母さんと2人覗きこんで手を振ってくれてた。


ちょっと特殊かもしれないけど、
それがあたしの当たり前で、幸せだった。

最期に近づくにつれ、半身に麻痺が出始めて、
車椅子生活になり、寝たきりになり、それでも笑ってた。

でも、生前最後に会ったときは、もう意識が薄れてて、
お母さんが耳元で大声で話しかけても全く反応がなかった。
いつもバカみたいに強い力で手を握るくせに、全く力を感じない。

ショックだった。
お兄ちゃんの笑顔がない。

でも、帰ろうとしたときに、弱い力を手に感じた。
びっくりして顔を見たら、うっすらと目を開けて涙を流した。
あの光景は、何年経っても忘れられない。

そのあと、お父さんから延命治療はしないという話を聞かされた。
もうお兄ちゃんは充分すぎるほど頑張ったから、これ以上つらい思いはさせられない、と。
その決断をしたときの両親の心情を今になって考えると、そこには到底計り知れない覚悟があったんだろう。

そして、いつも目を覚まさない時間にお母さんが目を覚まし、
しばらくしたら看護師さんが走って病室に来たら、
そのまま眠るように最期を迎えた。最期をお母さんに看取ってほしくて起こしたんだろうな。

家に帰ってきて、たくさんの人が会いに来てくれた。
そしたら奇跡が起きた。お兄ちゃん、笑顔になったの。
いつも見せてくれた、あたしの大好きな優しい笑顔に。


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今日生声ライヴのときの大ちゃんのMC。
今まで生声をやってたカフェの裕寄さんが、
今月末に閉店されるそうで、それにまつわり、
自分の地元の、小さい頃からずっと御用達だった思い出のスーパーが夏に閉店して、
自分にとっての思い出の場所がなくなるのは寂しかった、って話をした。

あたしの頭に浮かんだのは、前の大学病院。
そう、お兄ちゃんが入院してて、行けば会えて…最期を迎えた場所。

移転して取り壊されるのを、
仕事に行く道すがら見てた。

思い出の場所がなくなった。

お兄ちゃんがいた病室も、
上を見れば手を振ってくれた裏口もない。
お母さんと遊びながら昇った階段も。
入院中も毎日電話をかけてくれてた公衆電話もない。

しばらく通るのがつらかった。


ふと、そのMCのあとに頭に【瞳】が浮かんだ。
聴きたい。この想いのまま、心に刻みたい。

そう思っていたら、本当に【瞳】を歌ってくれた。
心が解放できた。いろんな感情が入り交じって、涙が出てきた。


つらい想いって、なんであるのかって、
その分幸せを感じられるからだと思う。
その時つらくても、後々自分の生きる糧になる。

昔は友達も少なくていじめられっ子だったあたしがこんなに明るくなれたのは、
お兄ちゃんがくれた心を、自分の心に宿すことができたから、かな?
だから、11/29は、新しいあたしとお兄ちゃんの誕生日なのかもしれない。

あたしら家族と、お兄ちゃんのことを覚えてくれてる人がいる限り、
この世で一緒に歩んでいける気がするから。

だからあたしは、こんな人生を送った人もいるんだよってことを、
この時期に伝えるようにしてる。
そして、いまの幸せが当たり前に思わないように、自分の気持ちに立ち返る日でもある。

お兄ちゃんがくれた心のプレゼントを抱いて、
あたしはこれからもお兄ちゃんの分まで、笑って泣いて、あたしの人生を過ごします。

それがきっと、お兄ちゃんにできる恩返しだと思うから。

あたしの周りのすべてに、
ありがとう。



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