「もし道に迷ったら一番良いのは猫についていくことだ。

猫は道に迷わない。」

チャールズ・M・シュルツ
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イチローがいなくなってからも、我が家の庭には野良猫が来ては去っていった。
何匹かは家に入ってくる資格を得たが、皆一様にエバに敬意を払った。
(エバが近づいてくる野良猫を威嚇するせいもあったが)


弟が育ち、猫が去来し、時間が過ぎていく間、僕はバンドマンとして活動を続けていった。
しかし結局あるとき紆余曲折を経て僕の所属するバンドは解散した。

大学を辞め、バンドも失った僕には、貯金もコネも社会人経験も資格もスキルも自信も何にも残っていなかった。そして、音楽に関わっていないと今までの人生が嘘になってしまう気がして、僕はそこに拘って、前に進めずにいた。


僕はそのうち、偶然知り合った小さい音楽事務所のプロデューサーと行動を共にすることになった。
そして、そのプロデューサーさんが押し出していた「 安室奈美恵とジミヘンと椎名林檎を混ぜたキャラ」という女性アーティストのバックでギターを弾くことになった。

今思えばそれは、逃避とも言える刹那的な選択であった。
しかし、僕の今までの人生を無駄にしないためには、目の前の音楽活動に飛び付くしかないように思えたのだった。



ある日、父が働く貿易会社のロンドンの支社で欠員が出たとのことで、お前行かないか、と父から誘いがあった。ロンドン。遠いけれど、僕はイギリスの音楽が好きだったので、興味は湧いた。
心配事は英語がほとんど喋れないこと、自動車の運転免許証を持っていないことで、このふたつはなかなかクリティカルな問題だと思えたが、行けば行ったで何とかなるだろう、という気持ちもあった。

僕は当時付き合っていた女性(現在の妻)に僕のロンドン行きに対する意見を訪ねてみた。

「え、私、待てないよ?」

これだけであった。



僕は父の誘いを断った。

父は残念そうにし、それから、お前はこれからどうするつもりなんだ、という話が始まった。

就職、結婚、将来。

お前は、一生懸命、誰かのために生きているのか?もうそうしても良い年ではないか?

そう問われ、僕は生まれてから27年間、いつも自分のことしか考えていなかった事に気が付いた。
自分のためにギターを弾き、自分のために恋愛し、自分のために働き、自分のために生活していた。
父や、他の敬愛すべき大人たちのように、他者のために身を削るだけの覚悟や愛情を持っていなかったのだ、と気が付いた。



僕は父の問いに何も答えられなかった。

無言の僕を置いて、父は僕の部屋を出ていった。

僕の部屋には二段ベッドがあって、僕は下の段に腰かけて父と話していた。
父は話している間、向かい合う形で椅子に座っていた。
エバが二段ベッドの上段で寝息をたてていた。

僕は悔しさと歯がゆさと無力さと今までの人生への無念さで泣いた。

父に聞こえないように、声を殺して。


気が付くと、エバが梯子を伝って上段から降り、僕の横に来ていた。
僕は泣きながらエバの背を撫でた。
エバは僕の手からスッと逃げて、僕の背中側に回り、背中を暖めてくれているように、僕の後ろで丸くなった。エバはすごく柔らかく、暖かく、小さい体から大きな優しさを放っていた。

エバは僕の涙か止まるまで、そこにそうしていてくれた。

僕はお礼の気持ちを込めてエバの頭を撫でた。

エバはちらと僕を見上げ、そのまま眠りについた。


次の日もその次の日も、エバは何事も無かったかのように、僕に接した。

僕も自分のペースで焦らず生きようと決意し、毎日はまた続いていった。



第5話へつづく