島根県立 益田高等学校 | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、島根県の益田高校です。

https://www.masuda.ed.jp/

 

益田市は島根県の西部、日本海に面する地方都市です。山陰本線に山口線が合流する要衝で、石見空港もあってアクセスは悪くないほうかと思いますね。

飛鳥時代、万葉集にもたびたび登場する歌人だった柿本人麻呂と室町時代に活躍した水墨画家・禅僧の雪舟が晩年に当地で過ごしていたといいます。ゆかりの施設として柿本神社や万葉公園、医光寺、雪舟の郷記念館などがあるので訪問したときはこれらを巡ってみても良いでしょう。

 

学校は日本海からやや内陸部に入ったところにある益田市街の東の七尾山の麓にあり、JR益田駅からは1kmほどです。

明治45年に益田女子技芸学校として始まり、益田実科高女益田高女を経て昭和23年に益田高校となりました。翌年には益田農林高校を統合して総合制の高校となりましたが数年後に再び分離しています。このあたりでは進学校で生徒の大多数が国公私立大学に進学するようです。

現在の校歌は作詞:佐藤春夫 作曲:信時潔で昭和29年制定です。

益田高校 (全2番)

 歌の聖と 画の聖

 ふたり眠れり この郷に

 七尾山下の わが校舎

 心ありてぞ 門べには

 濁りに染まぬ 蓮植ゑぬ

 先哲 われを導くを

 げに石見野の 春草の

 夢に酔ふべき 身ならんや

 

作詞者の佐藤春夫氏は森鴎外を尊敬していたものの「(鴎外に)五、六回お目にかかった。その後二、三度陸軍省の医務局に校正を届けた際お目にかかったが、いずれも簡単で、懐旧談を語るほどの資料はもっていない」くらいの関係だったようですが、昭和29年に鴎外の故郷・津和野での詩碑の除幕式に招待され出席した折に益田高校の関係者に校歌作詞を請われて来益、学校周辺を視察して詞を書いています。

歌の聖」は柿本人麻呂、「画の聖」は雪舟を指し、ともに終焉の地としてここに「眠る」から始まり、当時は学校の校門前に蓮田が広がっていたので「門べには…蓮植えぬ」と描写しています。”泥中の蓮”といって蓮は泥水の中から清く美しく花が咲く象徴なので生徒もかくあれという思いがこめられているのでしょう。最後の2行は佐藤氏独特の「感性・観念的」な文で締めます。愛知・小牧高校小牧の原の春草に、夢貪らん身ならんや」や青森・三本木高校三木野が原の春草の、わかうど若く夢きよし」と同様ですね。

 

ところで少し本筋と離れますが、柿本人麻呂の人生はほぼ全てが謎に包まれていて終焉の地も益田説の他に2ヶ所ほどあるようです。というのも、辞世の句?とされる次の歌がどこで詠まれたのかがはっきりしていないからです。

 柿本朝臣人麻呂 石見国に在りて死に臨む時自ら傷みて作る歌一首

 鴨山の 磐根し枕ける 吾をかも 知らにと妹の 待ちつつあらむ

このことから鴨山で亡くなったとする説が一般で、鴨山とは一説に石見益田の沖合にあった鴨島(平安時代の地震で沈没したという)を指し、ここには人麻呂神社が建立されていた…という伝承が伝えられているそうです。この地震の津波で対岸の本土に御神体や色々な遺物が流れ着いたのを、改めて人丸神社として再興し後年柿本神社となったとされます。異説としては、明治時代に斎藤茂吉が著書『柿本人麻呂鴨山考』の中で同じく石見国の浜田市の山間部にある鴨山(亀山城址)と、人麻呂の妻・依羅娘子が詠んだ「ただの相いは 相い耐えざらん 石川に 雲立ちわたれ 見つゝ偲ばむ」の石川(江の川)を探し当てたというものです。ここは今の粕渕に近く、かつては邑智高校が所在していました。

邑智高校の校歌の冒頭に「雲たちわたる邑智群山」とあり、作詞者の意図が入っているのかなと思うのは穿ちすぎな気もします(笑)

 

前身の益田高女の校歌は作詞:今泉浦次郎 作曲:関平三郎で昭和14年制定です。

益田高女 (全4番)

 物皆に 益田の郷は

 人心 豊に長閑けく

 群山の 松は緑に

 若鮎の 瀬走るさとよ 瀬走るさとよ

 

作詞者が今泉浦次郎氏と知り私的に「ん?」となりました。今泉浦治郎という歴史・国文学者と同一人物なのでしょうか?氏は愛知県北設楽郡出身で愛知県内の校歌をいくつか作っているのですが、同じ人なら島根県の地方都市の学校を手掛けられたきっかけや理由が知りたいですね。北設楽郡歌や津具中学校校歌などとても格調高く、Youtubeで聞けます。

 

高校野球では昭和53年春と昭和57年夏の2回、甲子園出場を果たしていて夏の方で1勝を挙げました。この試合はいわゆる「1イニング4アウト」で有名ですね。他には囲碁部が全国大会出場するなどしています。