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皆さま、
おは・こんにち・ばんは。

初夏を通り越している日和。

先々週、もう一つの故郷へ墓参り&裏山の西光寺歴代住職塔に手を合わせてきました。



(↑新庄市内.長泉寺)


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私の身体には、僧侶の血・戦国武将の血・出羽.新庄藩士の血・農家の血が流れています。

↑写真は、新庄市の長泉寺

母の実家の菩提寺でもあります。



新庄のじいちゃん..ばあちゃん..えーん




長泉寺の住職・副住職さまとは、法要(葬儀)の場で数回ご一緒させて頂きました




江戸時代、出羽新庄藩が行った"町割り"



長泉寺さまには、町割りの影響を受けた歴史がございます。




(↑西光寺.開山歴代住職塔)




続いて、

西光寺歴住塔(祖父の時世で石塔を新調)




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我が家には、家の墓がございません。

西光寺が世襲となったのは、祖父が曽祖父より代を継いだ瞬間から(昭和50年代)

僧侶は歴住塔へ、女子は寺族塔へ納骨されます。



歴代住職へ、深々と合掌低頭キョロキョロ




副住職の立場から、

近況等をご報告申し上げました🙏





..さて、本題。




(↑温海町史-上巻より)





小岩川にお住まいの方々には、



火防土手(←通称.土手山)が存在していたことを知っている方もいらっしゃると思いますキョロキョロ






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市立図書館に、

絵図・火防土手(堤)の図面・荘内藩より決裁された公文書が保管されている..とのこと。

閲覧撮影はできるとのことで、さっそく行ってみました照れ




(↑1812年.小岩川火防土手の絵図)


(↑1840年.新土手計画の絵図)


(↑1812年.土手築立の人足帳)


(↑新.火防土手の図面)


(↑築立の許可を願い出ている)


(↑人足を増やす旨を報告している)






当時の支配制度に当てはめると、


荘内藩庁
↓↑

代官所

↓↑

大庄屋

↓↑

肝煎(現在でいう自治会長)


↑の流れで、

事業の申請・審査・許可がなされたようです。






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資料によると..小岩川では、

1808年に焼失66軒(村の9割)
1812年には焼失65軒

と、大火が続きました。





加えて、集落史によると..



『火防土手.築立計画』の発端は、西光寺の卍提和尚からの提案であったようです。




(↑慧命卍提大和尚像)






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延焼を防ぐ、土手(堤)とかあれば良いんじゃね?

だって、南北どちらか半分は生き残るっしょ?

全て燃えるより良いっしょ。





閲覧した文書から読み取れる..

1812年当時の小岩川





肝煎は、八右衛門さん


※添役は、源右衛門さん・惣助さん

(※現在でいう副会長)


※長人は、三郎左衛門さん・甚右衛門さん・長左衛門さん

(※村の行政を担当する役職)


惣代は、与惣左衛門さん・平兵衛?さん・甚四郎さん・五郎左衛門さん・兵助(伝兵衛)さん






ほか..喜左衛門さん・喜右衛門さん等、役職に就くような家々を中心に、話し合われたようです。







結果、火防土手の計画がスタートキョロキョロ




荘内藩からのお墨付きも得て、

火防土手は築立されました。




(↑現在の集落に当てはめる)




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白は、1812〜1819年にかけて築立された土手(堤)

現在のJR小岩川駅〜販売所(漁業)までの道が、その名残。

水色は、1840年に計画された幻の火防土手(追加の)





周辺の村々からの応援+追加の人足(500名)も得て、完成させた火防土手..。






1840年...再び大火に見舞われたようですが、偉力を発揮したようです。








話を聞いた郡代(藩の要職)は、

もう一つ、土手を築いたら?

お前ら、、まずまず火事起こしてるんだからさ..。

いやいや..築いとけよ。

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と、指示。






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1840年に、もう一つの火防土手が計画されたのは驚きびっくり

長さ:49m・敷幅:9m・上幅:5.4m・高さ:3.3m・坪数:183.3坪

前回の経験から、必要な人足を3,849名と見積った..と。




しかしながら、

様々な事情から計画を諦めたようです。





その代わり、

広小路を設けることが決まりました。





現在の、六郎右衛門さん・久左衛門さん前の道が該当するのかな?と推測しています。








西光寺を囲うような火防土手(堤)も、築かれたようです。




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土手というか..土塁に近かったのでは?と推測。

いやはや..念入りですね(笑)








長くなりました(笑)





なぜ、こんな記事を書いたかと言うと..





西光寺の寺史には、

幾つか"空白"があるからです。





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火防土手とは別の事なんですけどね..。

市立図書館へ赴いた甲斐はありましたよ。

また一つ、寺史の空白が埋まりましたとさてへぺろ





ちなみに、"火防土手"は

↓の記事でも触れています。