(↑新庄市内.長泉寺)
新庄のじいちゃん..ばあちゃん..
長泉寺の住職・副住職さまとは、法要(葬儀)の場で数回ご一緒させて頂きました。
江戸時代、出羽新庄藩が行った"町割り"
長泉寺さまには、町割りの影響を受けた歴史がございます。
(↑西光寺.開山歴代住職塔)
続いて、
西光寺歴住塔(祖父の時世で石塔を新調)
歴代住職へ、深々と合掌低頭
副住職の立場から、
近況等をご報告申し上げました🙏
..さて、本題。
小岩川にお住まいの方々には、
火防土手(←通称.土手山)が存在していたことを知っている方もいらっしゃると思います
(↑1812年.小岩川火防土手の絵図)
(↑1840年.新土手計画の絵図)
(↑1812年.土手築立の人足帳)
(↑新.火防土手の図面)
(↑築立の許可を願い出ている)
(↑人足を増やす旨を報告している)
当時の支配制度に当てはめると、
荘内藩庁
↓↑
代官所
↓↑
大庄屋
↓↑
肝煎(現在でいう自治会長)
↑の流れで、
事業の申請・審査・許可がなされたようです。
加えて、集落史によると..
『火防土手.築立計画』の発端は、西光寺の卍提和尚からの提案であったようです。
(↑慧命卍提大和尚像)
閲覧した文書から読み取れる..
1812年当時の小岩川
肝煎は、八右衛門さん
※添役は、源右衛門さん・惣助さん
(※現在でいう副会長)
※長人は、三郎左衛門さん・甚右衛門さん・長左衛門さん
(※村の行政を担当する役職)
惣代は、与惣左衛門さん・平兵衛?さん・甚四郎さん・五郎左衛門さん・兵助(伝兵衛)さん
ほか..喜左衛門さん・喜右衛門さん等、役職に就くような家々を中心に、話し合われたようです。
結果、火防土手の計画がスタート
荘内藩からのお墨付きも得て、
火防土手は築立されました。
(↑現在の集落に当てはめる)
周辺の村々からの応援+追加の人足(500名)も得て、完成させた火防土手..。
1840年...再び大火に見舞われたようですが、偉力を発揮したようです。
話を聞いた郡代(藩の要職)は、
と、指示。
しかしながら、
様々な事情から計画を諦めたようです。
その代わり、
広小路を設けることが決まりました。
現在の、六郎右衛門さん・久左衛門さん前の道が該当するのかな?と推測しています。
西光寺を囲うような火防土手(堤)も、築かれたようです。
長くなりました(笑)
なぜ、こんな記事を書いたかと言うと..
西光寺の寺史には、
幾つか"空白"があるからです。
ちなみに、"火防土手"は
↓の記事でも触れています。