雪国から町に帰ってくると、私の知らない間に
いろいろな人がいろいろなことをおっしゃっているので、
それを追いかけるのに少し時間がかかります。
さて、内田先生がこんなこと を仰っています。

(引用はじめ)
私は作家の自作自注をあまり信用しない(他の批評家や研究者の解釈と同じ程度にしか信用しない)。
自分の作品が何を意味するのかすらすら言えるくらいならわざわざ作品を作って迂回する必要はないからである。
言いたいことが手短に言えるなら言えばよい。
言えないから作家だって作品を書いたのである。
(引用終わり)

ああ、だから授業で小説を小説として読むことに挑戦することが、
授業の目標として成立するのだなあと、納得した次第です。
表現者は、一生をかけて自分の語りの主題を追い求めていくのですが、
その主題を語る道具であるところの言葉や、
その主題を語る材料であるところの人生経験は、
表現者が生きてきた間に得た有限なものでしかないために、
表現者が「心の中に満ちてくる言葉」を待ち続けていけば
「寡作な人」となるのであろうし、
「心の中の言葉」が自分の中で満ちてこようが満ちてこなかろうが、
そこから表現を続けていくことの出来る表現者は
「多作な人」になるのではないのでしょうか。
そして、自分の語りの主題を追い求めていくその作業は、
自分の常に手に入れていないものを、
自分と同時代に生きている、
読者という名の、
自分より更にその主題を手にいれる術を持たないであろう人々に、
たとえわかりやすくではない形であっても、
その「主題」を手渡していかなければならないという点で、
常に「解釈」による補完が求められるものなのでしょう。
「主題」は基本的に手に入るものではないのです。
手に入ってしまった瞬間に、表現者のこころは壊れてしまう。
それくらいに危うくて美しいもの。
でもその主題をもがきながら、つかもうとして、
そのつかもうとして手の中に入った藁を、
結晶化させたり希釈したりして、
読者に提供するのだと思います。
そして、その、
表現者自身が気づいていないレベルまでの
「その時点での表現者自身が近づいたであろう主題」が
何であるかを読み解く作業が、
小説を小説として読ませる作業なのだと思います。
もちろんその「解釈」は、
みんなちがって、みんないい、
ものになるはずです。
   あまりにも頓珍漢珍なものでなければ。
   いえ、学校によっては先生が
   「その解釈は噴飯ものでは?」と思われる
   「解釈」とやらを繰り広げておいでの方がおいでで、
   そのとおりに期末試験で解答しなければ、
   10点なり何なりが吹っ飛ぶシステムに
   なっていたりするものですから。
   どの学校とは特定しませんけれど。
ですから、その
表現者が気づいていて、読者にわかりやすく見せようとしている
レベルまでであれば、
どう「読む」かの答えは、
割とゆれることなく導き出されるのではないかと思うのです。
でもそれは、小説を物語として読ませるレベルを
こえていないのではないかと思うのですね。
でも、そのレベルまでしか
いわゆる受験では出題できないし、
そこを万が一踏み越えた問題作りをしてしまうと、
予備校とか過去問を出版する会社から
その先生は叩かれることになってしまうのだと思います。
確かに、その「手法」が表に現れているものではない以上は、
入試業界からは叩かれることになるのかもしれません。
でも、そういう「読み」を求めている先生がおいでである、
という一つの指標にはなると思うのです。
ましてや、学校の中の授業であれば、
小説を小説として読ませて、
その小説のなかから「作者さえも気づいていなかった表現の意図」を
読み取っていくための「手法の共通点を導く」作業が、
ある年齢以上のお子さんを導くことで
可能になると思います。
もちろん、物語の物語としての読み方の手法をわかっていないお子さんを
いきなりそのレベルまで引っ張ろうとするのは
無理難題以外の何者でもありませんので、
そんな先生が万が一おいでなら
それはそれで噴飯ものなのですが。
でも、名伯楽たる先生はなかなかおいでではありません。
だから、そういう実践をなさっている先生は
挑戦者になるのだと思いますが、
そういう先生に教われているお子さんは
幸せだろうと思うのでした。
              私の教え子に一人いるのですけれどね。