昨日、1月16日(木)は、一社の故実により左義長を当社遙拝所前で執り行いました。
ます、まだ暗い朝7時前に火入れをおこないました。
総代さん方にも、朝早くからご奉仕いただきました。
平日なので、早めに火入れしたのですが、案の定、通勤前の方々が多くお参りされていかれました。
しかし、昨日は風もなく、日中はだんだん晴れてきて、左義長には最適の日でした。
当社では、年中祭典のうち、秋季大祭での宵宮祭とこの左義長、それに氏子の子供たちを招いての節分祭の三神事のみ、この遙拝所で実施しています。
竃(へっつい)で古神符やしめ飾りや薪を燃やした、湯立神事用の釜の湯も沸騰して参りました。
午前7時半、妹が魚屋さんから予約した鱈を届けてくれました。
当社では、火伏祭のみ、神饌(しんせん)のお魚は真鱈を供えます。
これを、神前に供え神事を斎行いたしました。
今から390年前の寛永10年1月16日に、落雷により氏子町内が大火に見舞われ、以来鎮火の願いを込めて火伏祭(ひぶせまつり)を斎行するようになったのですが、左義長もあわせて行なうようになりました。
火伏祭(ひぶせまつり)なので、火を連想する赤い魚の鯛や、野菜や果物も赤い色のものは供えません。だから、白い色の鱈を捧げるのです。
特殊神饌として、「四種物(よくさのもの)」である「瓢(ひさご)」「土」「水菜」「水」も供えます。四種物とは鎮火に使われるものだからです。
次に、神前に供えた、御洗米一升と御神酒一升を湯沸した大釜に注ぎます。
続いて、忌笹(女笹)で祝詞を唱えながら散湯(さんとう)の儀をおこない、湯立神事を奉仕しますが、湯を撒き散らすことから氏子では「ユウマキ」と呼んでおります。
早朝より左義長奉仕の総代さん方と記念撮影。
神事後、氏子の方々が続々と参拝に訪れました。
参拝に訪れた氏子の方々は、各々鍋やポットを持参して、湯立神事によって奉製したこの神湯を持ち帰ります。
これを飲むと一年間風邪を引かないとされており、先代宮司の祖父の時代は、この神湯の中に含まれる粥を竹筒の中に入れ、割った竹筒の中の粥の数によってその年の豊凶を占う「粥占(かゆうらない)」をおこなっていました。
また、ご奉賛された方には、おさがりの節分の福豆とともに、当社の「鎮火神符」をおわかちしております。
鎮火神符の「火」の部分に押印してあるのは、瓢箪型の印に「四種神宝以(よくさのかむたからをもちて)」と刻印されております。
四種とは、先述した「瓢(ひさご)」「土」「水菜」「水」のことで、この「四種神宝」をもって火を封印するという意味です。
午前9時過ぎ、地元小学校の4年生が先生引率のもと参拝に訪れ、火伏祭や左義長の由来について説明しました。
生姜湯も飲んでもらいました。
この日、県内で左義長をおこなっているのは当社だけなので、問い合わせの電話がひっきりなしにかかって参りました。
午前11時を過ぎても参詣は続き、特に、会社関係の方が古神符や正月飾りを持参されてのお参りが目立ちました。
お昼近くになっても参拝は途切れることはありませんでした。
また、会社関係の方がシメ縄の「数の子飾り」を持ち寄られたのですが、燃納するのがもったいないくらいでした。
「数の子飾り」は、加賀藩政時代から続く金沢伝統の注連飾りで、
亀甲模様に編みこんでいくので、別名「鶴亀」ともいいます。
金沢城橋爪一の門や県庁玄関に取り付けられる物と同じものです。
午後1時を過ぎて、総代さん方には食事のあとお帰りいただき、私と禰宜夫婦とで引き続き対応いたしました。
午後2時を過ぎる頃には、氏子や近隣の方以外の市内からの駆け込みの方々が多く訪れましたが、みなさんネットで調べたと申していました。
午後2時半、熾火(おきび)状態になりながらもお参りが続き、その都度火にくべて燃納しました。
遙拝所前の往来を車で通られて、煙が上がっているのを確認して駆け込む方もおられました。
午後3時、最後の参詣者をお見送りして…。
終了したのですが、火がまだ燻(くす)ぶっているので、その後2時間ほど監視しました。
一方、女房は神前にお供えした真鱈を、切り身、白子、アラ、肝臓の部位に分けてさばきました。
で、何といってもオスの真鱈の楽しみは、この白子です。
白子は天ぷらにしても美味しいのですが、これだけ新鮮だとやはり生で酢の物にして食べるのが北陸人の流儀です。
さっそく、昨夜の晩酌で、おでんと共に白子酢で聞し召し(きこしめし)ました~。
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