昨日の午前中、当社でかなざわ・まち博神社のお宝めぐり 講座が開催されました。


はじかみ神主のぶろぐ


で、今日の地元紙・北國新聞朝刊の32面「かなざわ」欄を見ると、写真なしで小さく紹介されていました。「市内最古の獅子頭見学」という見出しですが、もっといろんな神社の神宝を拝観していただいたので、くわしくブログで紹介しますね!。


でも、昨日のまち博のお宝めぐりは、当社を含めた2社1寺で開催されたので、小さく扱われてもしょうがない部分もあります。


はじかみ神主のぶろぐ


午前10時からの開催でしたが、30分前には続々と応募者の方々が集まって参りました。


はじかみ神主のぶろぐ


昨日の講座は25名の方々が参加されました。


はじかみ神主のぶろぐ


開催前に、みなさんにはご神前にお参りいただきました。


はじかみ神主のぶろぐ


神社の由来や社名のこと、はじかみ大祭(生姜まつり)のことなどを一通りお話した後、拝殿に掲げられている古い社額について説明いたしました。


これは小野道風筆と伝えられているもので、小野道風がすりおろした生姜の汁で墨を摩って書いたと云われていますが、あくまでも「伝・小野道風筆」なのであしからず…。


はじかみ神主のぶろぐ


次に説明したのが、古い神具机ですが、その裏面に文字が書かれているのです。


これは、宝暦の大火によって金沢城や城下1万500戸以上が焼けた際、お城再建のお鍬初(起工式)に使われた神具机で、拝領になったものです。正式には「金沢城御経営御鍬初神具机」と申します。


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字が薄くてよく見えないと思いますが、こう書いてあります。

     奉納 北加州河北郡田近郷

        八幡村二日市村

波自加美神社〔正八幡〕宮宝前

加陽金沢城御経営御鍬初

              神具机  

     宝暦十三癸辛(みずのとかのと)天六月廿五日辰ノ剋(こく)

           正木甚左衛門定信

       祭主 坂井孫三郎政之

            穴生組(あのうぐみ)石工弐十余人

         石川郡金浦郷田井村(現・金沢市天神町)

                 高井大輔隠岐藤長興

 天満宮(椿原天満宮)神主      奉之(これをたてまつる) 


つまり、拝領したものとして伝えられている長さ約151センチ、高さ約25センチの神具机で、250年前、二ノ丸・五十間長屋の石垣修築の起工式で、お供え物を載せるための台として使用されたものです。

机の裏に「金沢城」「鍬初」「神具机」などの文字とともに、「宝暦十三年六月二十五日辰ノ刻」と判読できる文字が書かれています。
これは宝暦9年(1759)の大火で焼失した五十間長屋の石垣修築の起工式と日付が一致し、同時に起工式が「辰の刻」に行なわれ、石垣技術者や石工20人余も参列したことも記されています。

当時城再建の陣頭に立っていた穴生(あのう)の正木甚左衛門の名が見えるほか、起工式で祭主を務めた同じ穴生の坂井孫三郎など、石垣技術者が椿原天満宮の神職から儀式の作法を習い、儀式後、同机は椿原天満宮に拝領され、その後、天満宮とつながりの深い当社に渡ったものと考えられています。


現在、椿原天満宮のT宮司さんは当県神社庁トップの庁長に就任されているのですが、当時も加賀国における神社界筆頭の触頭(ふれがしら)でした。触頭とは、江戸時代に幕府や藩の寺社奉行の下で、各宗派ごとに任命された筆頭をつとめる特定の社寺のことです。本山及びその他社寺との上申下達などの連絡を行い、地域内の神社寺院の統制を行いました。


加賀の神社の触頭であった椿原天満宮さんには、昔も今もお世話になっているのですが、当時は当社もその触下(ふれした)として配下にありました。そして、当社のような郡部の田舎の神社では、社入を得るために金沢の中心地の神社へ出張して出開帳(でかいちょう)をおこないました。


当社の出開帳は、その記録によると椿原天満宮境内をお借りして度々行われていたようです。神輿に御神体を奉戴して椿原天満宮に動座し、期間中は神宝などを開帳して拝観料を戴いていたのです。そんな親密な関係から、椿原天満宮が拝領に際して裏書した神具机が、さらに当社に奉納されたものなのです。


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それで、神具机のことは、平成21年3月に石川県教育委員会より発行されたこの本にくわしく書かれているんですよね!。


加賀藩第10代藩主・重教(しげみち)公の時代、宝暦9年(1759)4月、藩政時代において最大の大火が起きました。出火元は犀川左岸の寺院で、犀川を越えて城下各地に飛び火し、さらに浅野川も越えて丸一日燃え続けました。この宝暦の大火によって金沢城をはじめ1万500戸以上が焼失しました。


お城の二ノ丸御殿だけでなく城内建物の大半が焼失し、石垣も炎と高熱によって被害を受けました。財政難の中で進められた城再建事業は、二ノ丸御殿周辺や三ノ丸河北門・石川門・土橋門などから着手され、宝暦13年頃から本格化した二ノ丸の五十間長屋と菱櫓(ひしやぐら)の再建にあたり、高さ11㍍の土台石垣の再建が、時の穴生(あのう)、正木甚左衛門によっておこなわれたのでした。


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江戸時代、石垣を作る専門技術者のことを「穴太(あのう)」「穴生(あのう)」「穴納(あのう)」などと呼びましたが、加賀藩の場合は「穴生」と表記することが多かったみたいです。


穴太の発祥の地は近江坂本(滋賀県大津市)の里で日吉大社のお膝元です。中世以来、比叡山延暦寺で土木作業に従事していた石工集団が住んでおり、豊臣政権で石垣職人として認められ、大阪城築城などで手腕を発揮しました。それが、江戸幕府では「公儀穴太頭」となり、各地の石垣作りで活躍したので、城石垣の職人呼称として「穴太」「穴生」の名が広まっていきました。


ですが、加賀藩での穴生は、町方の石工のような職人とは異なり、「御歩並(おかちなみ)」という身分に属する、れっきとした藩士でした。


中には、藩主から300石から500石もの知行を受ける高給取りの石垣巧者もいましたが、普通は50俵~30俵の切米(きりまい)を支給される士分でした。

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で、何で当社にあるこの250年前の神具机が歴史的に貴重なものかと言いますと…。


平成10年に五十間長屋の石垣解体調査がおこなわれた際、宝暦13年6月に行われた鍬初式の「鍬初石」が出土しました。


これは、石垣修築事業の始に行われた儀式を記念して埋められた「鍬初石」なのですが、当社の「鍬初神具机」の裏書に書いてある「宝暦十三癸辛六月廿五日辰ノ剋」と、年月日と時間までもが一致したのです!。これは大発見だということで、5年前の地元新聞で大きく取り上げられたのでした。


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この後、参加のみなさんには、当社の御宝物(ごほうもつ)を拝観してもらいました。なお、以下の画像はクリックすると全て拡大します。


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防火対策のため、鉄扉と金網付きの板戸との二重構造となっております。


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小さいながらも当社の宝物室です。宝物のほか文書(もんじょ=古文書)60数点を蔵しており、金沢市史編纂(へんさん)の際、市側のマイクロフイルムに記憶保存していただきました。


中には、除湿機と換気扇が設置されております。


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ご希望があれば、いつでも拝観可能です。大型のガラス張りの中に展示・保存されています。


数年毎に燻蒸(くんじょう=薬剤〔ガス〕で殺虫・殺菌を行うこと)を実施しております。


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これが有名な、金沢市では最古の獅子頭で、市指定文化財の「麦喰獅子(むぎくらいじし)」です。毛は植込み式で、ところどころ剥落(はくらつ)しておりますが、作者不詳ながら鎌倉時代の作と考証されております。


命名の由来は、夜な夜な神社を抜け出して、神社下の麦畑を喰い荒らしたので、金網をかけて出られないようにしたので、この名が付きました。


正倉院御物(ぎょぶつ)にある獅子頭と大変類似しております。県内の古獅子では、小松市津波倉神社(つばくらじんじゃ)の「津波倉獅子」が平成19年に県文から国の重文に指定されましたし、珠洲市宝立町の白山神社の「木造獅子頭」は昭和58年に県の文化財に指定されました。


同じ制作年代ながら銘文を有していないので、金沢市指定のみにとどまっていることは誠に残念なことです。


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昭和42年に公布された文化財指定書です。


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こちらの「木造随身像一対(護国山随身像)」も市指定のものです。


巾子(こじ)の高い冠をいただき、武官の束帯(そくたい)姿、片膝を立てて座った1対の随身像で、別名を矢大神、左大神といいます。


阿吽(あうん)の形相は、仁王像を擬したもので、口を開いている阿形像の形は矢大神で、神社に安置されているときは向かって左方でとなります。


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左大神は、向かって右に口を閉じている吽形像です。2体とも両手足先、その他持物が欠落していますが、冠に巻纓(けんえい)を付け、背に矢を、左腰に刀、左手に弓を持つ姿が目に浮かびます。


一木造(いちぎづくり)で、彫りの深い写実的技法から見て、鎌倉時代の作と認められました。


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昭和52年に公布された指定書です。彫刻部門で二点も指定されている社寺は、市内で当社だけです。


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狛犬(高麗犬)では、木造二対、石造二対を有しており、いずれも金沢市へ編入前の、旧森本町指定文化財ですが、合併後指定を解除されたことは誠に残念です。今年は旧森本町が金沢市へ編入して50年の節目の年なので、市の文化財課も再考してくだされ!。


木造狛犬は檜材(ひのきざい)丸彫りであって、共に彩色(さいしき)は剥落(はくらつ)しています。


下の画像の狛犬一対は、鎌倉時代の仏師・湛慶(たんけい)作と伝えていますが、有名な中央仏師が彫るはずがないので、これも「伝・湛慶 運慶作」としておきますか…。


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もう一対は運慶(うんけい)作と伝え、湛慶狛犬は動(陽)、運慶狛犬は静(陰)の様相を呈し、二対で又一対の「陰陽」の対をなしています。


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石造狛犬は、一対は、我が国に朝鮮半島より初めて薬としての生姜をもたらした武内宿禰(たけうちのすくね)を祀る、摂社・諶屏堂社(じんんべいどうしゃ)にあったもので、平安末と考証されています。


もう一方の狛犬は、末社・諏訪社にあったもので、桃山時代と考えられます。


このような小型の可愛い石造狛犬は、「白山狛犬」といって、加賀地方の神社に広く分布することを、私の亡き父が発見し、郷土史の学会で報告しました。


その他、平安期の神像、仏像、鶏頭など、十数点を有しています。


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この矢は「中脂矢根」といって、三条小鍛冶宗近の作で、木曾義仲が奉納しました。寿永2年(1183)の源平北国合戦のおり、義仲は倶利伽羅峠の合戦の前に当社へ奉納したものです。


私の家の始祖(先祖)は、醒井小藤太といって、木曾義仲の家臣でしたが、義仲の京都上洛に供奉(ぐぶ)せず、命によりこの地に土着しました。


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倶利伽羅の合戦に勝利した義仲は、その軍師であり軍僧である太夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう・かくみん)に揮毫(きごう)させ、この「正八幡宮」の額を奉納しました。


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「紐付丸鏡裏菊紋」、「人見泉守作古鏡」等、古鏡も、この画像のほか数点蔵しております。


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この菊の御紋入りの漆箱に入った掛け軸は、「後花園天皇御宸筆(ごしんぴつ)撰集佳句(せんしゅうかく)御書写掛軸」といって、通称「後花園天皇御宸翰(ごしんかん)」と申しております。


宸翰(しんかん)とは、天皇自筆の文書でのことです。


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黒漆の箱書きには、「菊の御紋」と「後花園天皇御宸翰」と螺鈿(らでん)細工で書かれていますね。


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下の方には、「波自加彌神社蔵」とあります。


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今から570年前のこの御宸翰は、当初、後小松天皇御宸筆(ごしんぴつ)と伝えていましたが、東京帝大文学部資料編纂(へんさん)所長の辻善之助博士によって、後花園天皇の御宸筆と鑑定され、『大日本資料第七編』に収蔵されました。


しかし、旧森本町指定文化財であるこの御宸筆は、以後何の指定も受けずに今日まできております。


富山県井波別院・瑞泉寺にも、この同じ、「紙本墨書後花園天皇宸翰消息(しんかんしょうそく)」を有していますが、7年前に富山県指定文化財から国の重要文化財に格上げとなりました。


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掛け軸の中をお見せ出来ないのが残念ですが、後花園天皇が『勅撰和歌集』から佳き句を選ばれて御書写になられたものです。


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これは、市・県の指定を受けてから、重文に答申する価値は充分にあるのですが…!。


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