☆2.26事件   標的2️⃣   高橋是清


   前回の小稿で226の概要は粗方説明はした。

   日本の右傾化はただ今現在でも囁かれており現政権の首相の思想が、平成末期のこの世の中に再び漂い始めている。

   戦前のこの頃は、右傾化どころの話ではない。

   昭和6年に始まった満州事変をキッカケに満州国発足。

   北へ西へ、そして南方へと日本の勢力拡大は年毎に進んでいった。

   陸軍海軍の年度予算も徐々に膨らんでいった。

   そんな折に大正時代から総理、大蔵大臣などを歴任してきた政界の長老、高橋是清は一貫して軍部とは対峙した姿勢で予算コントロールをして来たが、昭和7年の所謂、5.15事件以来軍部の一部若い将校達が血気にはやり、政界要人、財界要人達、中には同じ陸軍の中の幹部をも暗殺する事件が横行していた。

   テロリズムが横溢し出し血生臭い事件が散発する傾向に歯止めをかける者も無く、有るのは天皇陛下の良心のみであった。

   昭和天皇は、絶対権力者でありながらか細い情報で断固判断しなくてはならず、立憲君主制の制度で縛られて政治には参加出来なかった。が、彼は井の中の蛙や裸の王様にはならなかった。

   

   そんな昭和天皇が子供の頃からお側について裕仁親王の教育に当たってきた牧野伸顕伯爵や鈴木貫太郎侍従長らが、この226軍事クーデターが起きてその標的になって殺められたり、瀕死の重傷を負ったと聞いた天皇は烈火の如く怒ったという。

   そして26日にまず、参内した伏見宮から天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」など昭和維新の大詔渙発などを上申したが天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり。宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのような御言葉を聞くとは、心外である。」と言ってとりあわなかったと言う。

    又、同日午前9時  川島陸軍大臣が天皇に拝謁して、反乱軍の「蹶起(けっき)趣意書」を読み上げて状況説明をした。

   川島大臣は、事件が発生して恐懼(きょうく)に絶えないと、かしこまるが天皇は「何ゆえそのようなものを読み聞かせるのか、速やかに事件を鎮圧せよ!」と命じた。

   この時点で昭和天皇が反乱軍の意向を全く問題にしていないことが分かる。

   翌日27日早暁   速やかな鎮圧を望んでいた天皇の意向を受け遂に枢密院召集を経て、戒厳令が施行される。

   本庄侍従武官長は、決起した将校の精神だけでも何とか認めて貰いたいと天皇に奏上したが、天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」といつに無く荒い御言葉で一蹴したと言う。

   奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。


   午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。

   兎に角、天皇の怒りが尋常でない事がウィキペディアでの解説からも十二分に読み取れよう。


   終戦が本決まりになった昭和20年8月14日に再び近衛師団を中心にした軍事クーデター未遂事件が起こった時に、クーデターを起こした陸軍軍務課の椎崎中佐が…226の時は失敗に終わった。天皇を擁して居なかったからだ。然し今の我々は違う…と天皇を守る為、皇居に駐屯していた近衛師団を率いていたことから有頂天になりそう言葉を発したらしいが、今の視点から見れば226も終戦間際の方も無計画に根回しもそこそこにただ理想に燃える若者の幻影にのみ突き動かされた、行動の先走りであった。

   宮中クーデター未遂の方も最終局面で東部軍司令によりあっさり鎮圧された。

   226より全くもって小規模であり、年表からも抹殺されるような扱いだから寧ろ、226事件の方がスケール的にも遥かに大きな事件であった。


   さて、本日は昭和11年2月26日の朝に起こった同時多発テロとも言うべき要人暗殺事件のパート2、大蔵大臣 高橋是清だがこの事件については昭和50年代にテレビマンユニオンが制作したドキュメントドラマが残っており、これをダイジェストで辿って頂こうと思う。

   暗殺に至る経緯を分かりやすい様に分割してアップした。

   高橋是清を演じるのは嵯峨善兵衞

   若き日の伊丹十三なども出演して面白いが、ドラマ中心に展開してきて途中から事件当時の当事者にも出演させて演技までさせる今野勉の演出も光る一種独特のドラマだ。