日本の原理主義というのを考えてみた。

もともと日本には言葉がなくて、中国から漢字を輸入したというのだが、神代文字というのがあったという説もあり、皇神話の天皇時代から国史観などの根拠とされた。それらの実証不可能なことは別に、我々が今江戸時代の国学をもう一度考えてみる必要があるように思えた。


私は儒教を徹底して、自分の思考から排斥する。封建秩序を前提とする思想は個人に自立に至る思考の妨げになる。仏教倫理を研究すべきであろう。また忠・孝の倫理は西洋的な文脈の中でとらえなおさないといけない。

家制度は戦前の儒教的家族制度をこの100年において破壊してきた。韓国や中国はわれわれの家制度と異なる。根幹はそこにある。今回の東日本大震災で<絆>というワードがキーになった。この<絆>は社会的な心のつながりを意味し、伝統的な家族的、かつ身分的な秩序をいみしない。日本はこの<絆>という言葉を世界に通じる言葉にした。その根底にあるのは<心>の意識であり、<心>と<心>のつながりを<絆>と表現したのだ。


中国の思想には<心>が出てこない。彼らの思考の合理性は、この心を取り去ることで成立し、身分制度の肯定と現世に及ぼす先祖の悪霊を恐れる事で、徹底して先祖礼拝につらなる家族集団=宗族=氏族の維持であり、それを中国革命は打ち壊すことができなかったし、韓国はその契機(日本の統治時代)を拒絶した。


私は日本の目指す方向を考えるときに、仏教の有効性は認める。これはまた別の機会に語る。振り返ると中国の古典思想が大きな障害になっていることに気づき、それを批判したのは江戸時代の国学があるということに気づいた。

明治維新はこの国学において、中国的思想体系の批判の延長に、西洋思想を受け入れる素地を作ったのだと思う。我々が今日、大陸と異なる歴史上を歩いている原典は、そこにあると言える。我々が江戸時代の文化や思想を受け継ぐとしたら、そにお精神性における<国学>の批判的進化を企てることであろう。

我々の思想の根源は万葉集や古事記、日本書紀、はたまた物語に語られた古典日本人の<心情>にあるだろう。神道における<清め><禊>の思想、自然との関わりにおいて西洋人と異なる、<自然に生かされる人間>観など、それらの日本人をガラパゴスに育ててきた思考の原型を研究するのが<国学>でしょう。


私は儒教的しこうとプラグマティズム的倫理を廃して、仏教の救済思想にもとづく倫理観と神道における自律の思想、自己を倫理的に規制する思想(おてんとうさまが見てる)とを取り入れて、現代的な国学の普及を図るべきだと思うように至る。

儒教の現代的実現化が、中国の現状であり、戦前の軍国主義の経験としてとらえれば、いかに拒絶しなければならないかがわかるだろう。

儒教の有名な語句は我々の五感に染み入っているが、これからの若い世代の人たちからは取り払わないといけない。それらの精神的な要素は我々の企業倫理や支配関係、また官僚社会にしみついている。本当に1世紀以上の大事業となるだろうけれど、経済・政治のなかの儒教的な思考をすべて払拭させて<心>と<自律>と<絆>をキーワードにする社会を造り出すように、我々は目指すべきだろう。


<国学>を現代に批判的に読み替えて、天皇制を復古するような前時代的な、身分的な部分は否定して、国学で追求された<やまとごころ>の在り方を問う研究と、自律の思想的問題、つまり世俗的な生活の中で「おてんとう様に見られている」意識の持つ意味、心的な状況に現世ない行動に精神的な緊張関係を造り出す要素が、古ピューリタンのような激しいものではないにしても、日常生活の中に持ち続ける生活態度、つまり日本人的エートスの存在の自覚的な確認作業を、「国学」の復興の中でおこない、<新国学>を確立したいと思うのです。


中国は心情において緊張関係を最小限にする方向で儒教が成立しました。他方その緊張関係を最大化する方向で近代が生まれてきました。その緊張感を程よく維持する日本の精神状況は今後グローバル化する可能性があります。

ダライラマ法王が「幸福論」の中で、<道徳の革命><精神の革命>を解かれています。また「宗教をこえた倫理的態度での生活」を求められてもいるのです。

日本人は英語も得意でないから、イギリスの新聞などでそいう状況を揶揄されますが、グローバル化というのはこちらが押し付けるものではない。周囲の人たちが取り入れていくものです。アメリカのグローバル資本主義などは単なる押しつけであり支配を広めようとするものです。

日本の柔道とかスシとかはこちらが強要してるもではないのです。


生活のインフラ整備の技術を他国に支援することは大事です。日本は<力>によるグローバル化の失敗を経験しているのです。まずは我々にはそういう<力>に基づく行動がふさわしくなく、<心>を軸にした行動が我々の原点にあることを、今一度<国学>的手法を持って学びなおしましょうということです。

もう一度、日本人とは「何か」を問い直してもよいのではないでしょうか。

まさに中国による<力>の行動を前にして、いい機会だと思うのです。