可能性を、上書きしている最中。

過剰な反応をする自分を見ている。


他者との関係性って、
一番近いのは親だったから、
傷つくから一定の距離をとってきた。

育ち直しで親代わりの人との関係性から、子への対し方を学び、
そこからがスタートだった。

自分の中が統率されていない状況であったから、
他者との関係性を上書きしたことで、
長年かけて個々の自分との関係性を作り治す事が出きた。

ようやく、自分の中で、全てを安全と認識出来るようになってきた。

何事かなければ基本、私はどんな自分も受け入れる。
私が弱いのは、人との関係性で、自分が自分らしくあれなかった時に起こる葛藤で、
まだまだそういう自分を面倒見て行く必要がある。
 

安心して身を預けるという感覚を深めていけるなら、その感覚が基礎となって、
そこから世界への安心感を育てていける。

人間というものは、そういう基本体験が大地となり、その人生を規定してしまうのだな。

どんな後付けでも、そこを上書き出来れば、
新しい人生が開けてくるだろう。

私は、そんな場作りがしたい。

限界を根本から変えることが出来る、
可能性の泉を湧き立たせる場所をつくりたい。

その為に、

私は今自分がいただいている縁を大事にし、
そこで自分の癖を知り、
より良い関係性の為に自分を解体し、造りなおす。

何度つまずいても、
最初から、
もう一度、もう一度、

自分の環境が許す限り、
私は 生まれたての子供なんだ。
そこにスタンスを置いて、

葛藤を許し、
新たな着地点を探す。



距離感に恐れおののいている現状だ。
とにかく
何事かあって、今までようやく積み上げた信じられる世界を壊されることが恐いのだ。

もっと近ずいていってみたい、そこに、どんな経験が待っているのだろう、
未知の世界を探究したい気持ちで近づくと
何事かあって全てが崩れ去る様な不安恐怖を体験する。

人生の中で、経験の無い距離にいるお互いのスタンスを、
どう定めて安全な距離を取るか、

そういう守りの気持ちを、ある程度は優先させなければならない現状がある。

いつか、無限の可能性に飛び込んで行きたい。
でも今は、許されない。

では、今は、今、出来ることをしていく。

それが、

要求と関係性を分離させること、
精神的な関係性と社会的関係性を分離させること、
  
そういう基本的な物事が、
私は出来ていない。


どんなに近しい関係性でも、全ての要求を呑んでもらえるわけがない。
当り前なんだけれども、

私が育った環境では、
家族の要求をのまない時、
関係性まで絶たれるような恐怖を、何度も体験した。

相手から来る要求の力は有無を言わせないものだった。
そうすると、
様々な手段を使ってごまかすか、
自分というものを、その都度壊して作り直すか、

これが、相手との信頼関係で決まってくる。

中間がないのだ。
来たら必ずどういう手段かで、受け止める必要がある。

だから、私は他者から発信されてくるものに過剰に緊張がある。

来るものが判らない時、
そこに、恐怖が生まれる。
何か自分に把握出来ない物事が進行して、自分の手におえない状況になっている。
あの時こうしていれば、ああしていれば、

そういうストレスの中で生きて来たことが、
それって普通じゃなかったんだって、
今、自分自身に理解されつつあって、

それは私にとっては大事なことなんだ。

子どもは、もっと誰かが心を寄せてくれて、一緒に考えてくれていいんだ。
一人で抱え込まなくてもよいのが、子供の特権なんだって、

それが分かれば、
私が自分の中の何を、思いやらなければならなかったのか、見えてくる。
自分が苦手で、それを出来なくて当たり前だと思っていないこと、
いわゆる発達障害、強い緊張で固めて乗り切っている、弱点と言える部分。

自分に許していないために、
娘や他者に対し、思いいたれない事が見えて来る。

ここは後で、もう少し掘り下げる必要がある。
ここまでわかれば、もうすぐ見えて来るはずだ。
 

 





とにかく、今わかることは、
何事か、物事が変化した時に、
それが何の為か判らない時に、

相手が言っていることを聞ける余裕を持つ為に、
私がそこに起こす過剰反応を、落ち着いて見ていけるように、
何か、自分が、気持ちの落としどころを見つける必要。

近い関係って、
そうである必要があるからそうなんだ。

親は、心の中まで入れなかった。
私にとって、安全ではなかったから。

何でかこんなに近くにいる存在、
それは、魂が安全だと認識しているから。
魂どうしがそれを了承しているから。

これが、自分の環境。
そこに、私の生きる場所がある。その現実を、受け入れる。

そこに開いて、それを前提として、そこから何かを学んでいくことが、
私のすること。

何より、経験したかったことだ。
許される限り、何度でも、
やりなおしたらいい。
 

 

 

  

  

 

あれ?
思い至れない、もう少し掘り下げれば見えて来ること、

発達障害、
これどこかで

  
前回書いたあれは、こういうことではなかったか?
https://ameblo.jp/hagoromo321/entry-12455448230.html
 

強い緊張で経過させてきた為に、

育てられなかった部分、

胆の座りが育っていないんじゃないかって、

 

動じないふりをすることと動じない事は違う、

実際は動じまくっている自分をさらけ出すって、こういうことか?

 

隠せない距離で、

シャットアウトしようとしている自分が何に反応しているのか、

判らない事を分かるように話してくれない事への反発だけじゃなく、

動じまくっている自分が恥ずかしくて、葛藤してるんじゃないの?

 

これを、私はここから育てていかな、

胆が座っていない。

本当は平気じゃない、でも、大人を演じなければならない。

だから頭で言い聞かせて、全部理屈で判っているところで解決させていて、

実際に体感覚では判っていない。

  

  

良かった、

ここからがスタートだ、

動じまくっているさなかに居ても、シャットアウトしなくても、

外界から距離を取らなくても、

ここは安全という前提に飛び込んで経験を積み上げていければ

そこから毎度自分が自分のすべきことを導き出せる。

  

つまり、

今ここで、周りとの繋がりを保ったまま、同時進行で自分を生きれる。

  

胆を育てる。