人の小さな甘えに、気が付かずに、思考で原因を探していた長い時があった。

自分より人の話を聞き、人の言う事が正しいと思ってきた。
生まれて20年くらい、そういうつもりで居た。

 
でも、外の世界に出て自分が主体で動く事に慣れてくると、そうでないという確信が生まれる様になった。
人があまりにも簡単に物事を決めつけてくれるから、その言葉は、もっと簡単に受け流していいと、
力をぬく事を覚えた。
自分の言動も、もっとラフに発していいということも。

  
昔の劣等感からものを見る癖、
私には、長い事、自分が人に頼られているという自覚が無かった。
だから、人とトラブる度、自分の所業に原因を探して、何を改めればいいのか考えてきた。

でも、
思いやると上から目線と言うし、
端折ると もういいって切るし
友とのトラブルで投げつけられる言葉のパターンの場数が増えていくに従い、ようやく、
甘えられているのだと、
気が付ける様になった。
そうしたら、景色が変わった(笑)


対等だと言われてきた。言われた言葉をそのまま聞いていた。
何でそれを言わなければならなかったのか、叫ぶ程に 本当は頼っている心持ちを跳ね除けようとしていたかも知れない、
自分だって強く言う時程自分に言い聞かせる必要のある時じゃないか。

自分がすることは、言葉に丁寧に対することではなく、その向こうの気持ちを汲んで、抱きしめて行くことだった。

ふり返れば、あらゆる場面で、私が見当違いをしてきたことに気付く。

もっと的確に相手の欲求に添う事が出来たのに、

精一杯大事にしているつもりでズレていたなんて、勿体なかったな。

  
自分には出来ない凄い能力を持った人達も、どこを見ても非の打ちどころのないように見える立派な人も、
意外と弱い人間で、実は頼っていたり 甘えたかったりする。

そんな事を
何度見誤っても又同じく外側の光に惑わされる私も又、相手を頼りたいのだ。
でも、
もう、自分で立って、
甘えられない人に甘えていいよって言える自分を、つくっていく。
  

  
これを書いていて、
自分もそうだなって。
相手に対し甘えている部分に、もっと自覚的にならないと。
自分が発する言葉の元になる感情、
これくらいは解れって、友なら判って当然。これくらいの関係性は出来ていると勝手に踏んでいるところ。
もっと先へ行きたいって、それを友も言っていた。
お互いに自分には見えていて当たり前な部分を、相手が認識していてツーカーで判って当然と、求めていた。

  
私の2人の友は自分にとても似ていて、どこも違う。
解り過ぎる程判って、全く理解出来ないと言い合う。こだわり、引っかかり処が違い、表現が全部違う。
あまりにも能力が凸凹で、補い合う為にはワンクッション足りない。

沢山沢山、学ばせてもらえる。

  

  
自分の状況は一旦さて置いて相手を曇りなく見る余裕を持とう。
もっともっと意識的になれる自分を、つくっていく。