しばらくは忙しいので、
書き溜めたものののみ

一先ず、5/15後のメモ書きをここにUP。

うちの祖母が大事にしていたニッコウキスゲ。毎年咲いてくれる。エディーブルフラワーとしても楽しめる

 

 

綺麗に晴れて、風が強い。音がするぐらい。
今日は、お彼岸の様な光の陽だった。

今日の夢、以下。

誰か、仲間の家で、自分の故郷が写っている珍しい記事を万結里に見せて、凄いよと言っていた。
遠い風神山の山並みが平野側から写っている。
ここが舞台なのだという記事。

そして、何やら仕事。夜、車で移動しながら、何かに不自由したお年寄りに声をかける小さな日常の一コマをはさみながら、

そして、逃げ隠れしている。何かに追われている。

場は会場にうつり、今日催される伝統で貴重な大イベントの為に、大きなお座敷が何段も重なる巨大な会場、
日本の場の使い方を私は知り尽くしていて、どこにどういう通路があるのか予測し、さりげなく逃げ隠れる。

舞台裏に居て、祭が始まり、舞台裏の役割の方々の仕事を、風通しの良い、気持ち良い感じで見ている。

そのうち、自分の仕事も自分が何者かも判らなくなって、裸で、何かを探しに通路を歩く。
一般の人達が会えない様な位の高い方の席の脇を通って、この仕事が、そういう人達と容易に接触できることを思った。
日本文化は必ず、様々な世界、交わる事のない持ち場の人達がシャッフルされて出会う場がある。
人生の中に箱庭の様にコンパクトにあらゆる要素、あらゆる体験、あらゆるチャンスが詰まっている。
そんなことを思った。

ところで、私はそこを通ったら、誰かに着物を渡された。
それは私のものだという。
白系のさりげなく水色のカヤの葉の様な模様がまばらに入った、普通の目立たない柄の着物。
着てみたら、とてもフィットしている。
それを着て、私は自分が何物かを知った。くノ一、忍者だった。

私は、自分がいつも、さりげなく身をかわし、さりげなく急ぎ、場を読んであからさまにそう見えない様に動く時の動き方を、
何だこの身のこなしはプロ級だなと思っていて(笑)
仕事はまだ思い出せてないのだけれど、とても納得している。


朝起きて、私は自分が くノ一 だったと思った。
というか、長い事そういう仕事をしていた様な感覚が自分の中に残っている。
強い光そのままに、人目をはばからずに騒ぎ立て、場を盛り立てるという事をいかにも乱暴に追行する一方で、
自分を場に溶け込ませて、いつも目立たずさりげなく役割を追行する感じと、責任感と、情報の通路的自分感。

リンゴの実生

 


ところで、
今直面している問題。
思考が暴走して、自分との対話が成り立たなくなってきている。
やたら疲れている。
ちょっと、病的な今です。

どうなっているのかというと、多分、
自分が自分の本当に対して誠実でなくなっているから。

自分をコントロールすることに躍起になっている。

だから、自分が自分のことを信用していない。
だから、
どうすればいいのか、

自分に寄り添うことに徹底するしかないでしょう。

そう出来ないからこうなっているのに、どうしよう。


書いて整理する。


いつもの苗作り作業スペース

 


15日、食房MUさん主催の宮崎雅夕さんのワークで、
活源運動なるものを久しぶりにやって、通路が通ったら、
又、唄って喋るのが当たり前のちょっと遠ざかっていた私が、出てきた。

   
活源運動って、体の浄化だと思うけど、
私はこれで感情の方も繋がってしまう。
ついでに、場や、相手や、そこにあるエネルギーと容易に同調する。
  
だから、昔10年以上面倒みてもらっていた野口整体系の整体師と、ここでぶつかった。
先生は私が理解出来なかった。
私は、ワーク生活の中で、どんどん開いていった心と体のことを、その変化が、どういう事であるのかを、誰にも教えてもらえず、
どう理解していいのか判らなかった。

長い付き合いだったから、信頼関係を築いていけると思ってきた。
けれども、何年経っても、私はこの先生の前で自分らしくあることが難しかった。

自分の中の本当に自分が一番何とかしたかった不可解な自分を、
それを、私は見てもらいたかった。
そうして、何か、手がかりが欲しかった。教え導いて欲しかった。

でも、それを、ほんの少しでも表した時、
全く受け入れてもらえなかった。
私の人間性を決めつけられて、
ひどくダメージを受けた。
しばらくは、どう考えればいいのか判らなかった。
結局は、他に、私の手を引いてくれた人がいたから、
そこに行くのを辞めた。

人に自分を表す時に起こる渦を、
私はとても恐れている。

よからぬ噂を流されたりして、長期にわたりダメージを受けた経験がある。

長い付き合い等で、相手を知っていると思っている人程、脅威になる。

知っているという人間の思い込みが、恐い。
だから、私は思い込む、決めるという事に慎重だ。
いつでも柔軟にその意識を変えていける様に、仮置きする。

だから積み上げには時間がかかる。なかなか、決断出来ない。
でも、いつか決断した時、積み上げる時は信頼出来る。



感情って、
そこに自分が色をつけなければ、ただ、通すだけで、健康だ。
それを苦しむと、苦しいし、痛みとすれば痛い。
そこに、ジャッジで余計な力を入れずに通す。

そうすれば、何の問題も無いはず。

随分まともに開いていなかった通路が久しぶりに開いた感。
   
ここで、この心と体を、当たりまえに使って行く為に、
もっと柔らかく繋がり、自由に自分でコントロールして、
外部との摩擦が起きないぐらいに
当り前に使いこなしたい。
  
ところで、
感情をエネルギーとして扱っていると、
他のエネルギーも、容易に通過していって、
区別が付きにくい。


私は憑依されるということはない。
20年前、食べ物を変えた事がきっかけで、開き始めた頃、よく、ヤバい霊と繋がって、首を絞められたり、毎日恐い経験をし、
波動を上げてアクセス先を変える事に躍起になった時期があった。

いろんな経験をするうちに、
私がいろんなエネルギーを通すにも関わらず憑依されないことに気が付く様になった。

憑依って、人のそれは、目を見ればわかる。
憑代のそれと違うのは、断然意識力。
自分が意識すれば、一瞬で辞めれる。
魂の力が違うという感じがする。

  

多分、人間関係と同じなのだと思う。

相手に依存しない立ち方。意識の立ち方への自覚。
  
もしかしたら、霊的信頼関係もあるかも知れない。
多分そこには約束があるんだ。

私はどんな方を通しても、その多重な存在のある一定の質が発する波の幅までしかアクセスしないというか、出来ない。勿論それが人間であっても。

 

私にとっては、体がある人間か、エネルギー体が主流の存在なのかという事に対しては、そこの区別より、関わってくるのは霊質幅なのだ。


神々はどんな奇天烈な姿の方でも、相手にとって失礼にならないところで付き合ってくれる。
神と呼ばれる、ある一定の霊質の幅。

自分が関われる相手の上下の境界線は多分自分の霊質幅なんだと思う。
観音様とアクセスする等は、自分が常にそうでなくても、そこまでは上げられる波動分、潜在的に持っている幅の分がキャパなんだと思う。

よく、自分より高い存在を降ろすと言う。
自分がやっていると思う等おこがましいという。
教えてもらう情報等、自分が知りようもないことはそうなんだろうけれども、

自分じゃないから仕方がないとか、神の声はこうですとか、そういう感覚は違う。

それじゃあ、無責任だ。自分がやっているんだよ。間違いなく、相手と同調しているのは自分なんだ。
だからこそ、自分が問われる。

 

依存と違うのは、同調には自己責任が伴う。個として相手と同調分は自分持ちで充分行ける。何があっても、その部分は受け止めるのが約束だ。

つまり、どれだけ自分を受け入れてきたか、そこが他者の受容と関わってきて、そこに、責任が持てるかどうかはこの、受容力の幅で決まるのだと思う。

  
瞬間に辞めれるということは、常に自分が外側からそれを見つめていて、判断しているからだ。
その意識力が鍵なんだ。
出来ないと、泣き言を言いながらでも、でも、
いつでも、自分を問うていなければ、
そこに自分を同時に置かなくては、ただの無責任な憑代は、中心からズレて行く。

別なものになっていく。

 

何度か、ズレた人と違う方向に向った事がある。
何度かずれそうになった時がある。

いつだって誘惑はある。人って、何かに執着して自覚が下がると、気が付かないうちに結構簡単にズレてしまう。そういう、変な方向には行きたくない。

 

多分、意図と、自分を問うことと、外側の世界を自分事のように思いやることが、大事なのではないかと思う。

内側がいっぱいいっぱいでダメな時も、辺り中を大切にしていると、ズレそうになった時に外側から気が付かせてもらえる。



私に付き合ってくれる存在は、相手が目上の方が多いけれど、同等に付き合ってくれている。
妹みたいに、面倒見てもらっている。それぐらいの幅だ。
形として崇拝する場合があっても、崇め奉るというのは違う気がする。
地球では、このくらいの幅の存在までしかアクセス出来ないのではないかと、思っている。
あるいは、まだ私が出会っていないだけなのかも。


霊とか、魂とか、神とか、それを感じ取るということは、昔は皆当たり前だったはず。何が違って変わってしまったのかと思ったら、食べ物だった。

私は食べ物を自然なものに変えてから感性が使える様になった。これは多分、昔の日本人の当たり前の感性なのだと思うのだ。

 

私達は一つの大きな命の中に全てが含まれていて、その中の枝葉の一つとしての自分の部位が、他の部位を感知するようなものという理解がある。
例えば、自分の体で、どんなに意識しても動かせない部位と、自分が意識しなければ動かない部位がある、又無意識に活動している部位もある。そういう、自分にとっての繋がり方で成り立っている体の日々の活動がある。
自分の肉体で、意識していける部分を増やしたり、意識の深さを深めたり、そんな事と、外側への感知力は比例していると思う。

見えるもの全ても、土も礫も、埃も、結局は自分の一部なんだ。その事に気持ちを向けると、世界への信頼感が戻ってくる。

自分がどんなに変化しても、その中心の本体から来る理解は、変わっていない。

それから、同化しやすい相手と同化するんだ。
友となんて、テレパシーが通じる事は分ったけれど、いくらきわどいやりとりしていても、一体にはならないから、
違うから面白いんだろうな。

一般の人は、通すのにとても集中力がいるから、やらないし、勝手に出入りはしない。
合う人とは、そんなつもりがなくても、勝手に繋がってしまう。
山や、土地の神々が私には合う。


あからさまに別人格になるのではなく、
通しながらも気が付かれないぐらいに状況を見ていきながら、
知らんぷりしながら自分の役割を果たしたい。

神々がそうであるように、気が付かれることもなく溶けるように、場の力になれたら。
認められたい欲のある自分だけれど、そこへの執着をそぎ落としていけたら、気持ちいいだろうな。
あの、お彼岸の日の日差しの様な、透明な波になれたら。

そんな願いを持って、
5/22・23日のイベントをむかえた。

いつか、その経験も、UP出来たらと思う。


この頃、一つの強い欲求を隠しながら、物事を追行していた。

それが、夢に表れていた。

この世界のどこにも、それを表に出せる場所はなかった。

 

自分だけの自由な場所と思い込んでいた、内側の活動である思考や思い、願いさえ、

容易く人を惑わすと、容易く世界に影響を与え続けていると

知って、

実感して、

注意する程に混乱し、納まる事を忘れたかのよう。

 

それはいく分か力が抜けてきたけれども、今でもある。

でも、

その欲求と世界への思いは相反しない。全部はいつか、一つながりになるだろう。

自分が自分の中で、理解してあげられていればいい。

  

自分が、自分を信じてあげられたら。

自分は、ちゃんと、行きつきたい未来に、自分を連れて行ってくれるだろう。

 


うちのユキノシタの群生(薬草)