昨日も、今日も、空には神々が舞っていた。
今朝は、よく見に来てくれる方ではない方が、私を認識して見てるのがわかった。その後、海の方へ帰っていく一団があって、
どなただろうと、帰っていく鳥の様なその姿を見ていた。

土曜日久米城後地を廻った。そこは、太古の祭祀場があり、そこに立った時、泣きたい感情と喜びが通っていった。
何か、忘れられた大事を見つけてもらえたような嬉しさがあった。
日曜日は近所の方のお葬式。94歳の方。

何かが終わり、何かが始まっている。

お彼岸の様な遠く澄んだ、綺麗な空だった。

最近、そんな空がよくある。光も、空気も、色も、風も、以前とは違う。

 

久米城後地の山の神



太陽光発電場を回避する為に今年買い取った畑、耕作し、種用カボチャを植えた。


自分が自分の外をどう扱うかが、自分が外の世界からどう扱われるかに、ちゃんと、帰ってくる。
それを、感じながら、思った。

もっと、もっと深く感じて生きて行きたい。

もっともっと、世界と相思相愛で生きたい。

子供の頃、頭で決めつけることで、そこにそれ以上意識を置かないという現代人特有の癖を、身に着けた。

固定したモノの見方をすることで、状況を一律に扱う。
これは、一つの群れが一つの生き物の様に動く本能的な力を封じ込めて、統率したい側が統率出来る様にする手法だったのかも知れない。

この強い方向付けが、公教育の間中、ずっと、自分を縛り続けていた。
その正体も知らずに、私は、その力とそりが合わず、上手く融合出来ないことを、ずっと、辛く感じていた。
帰り道に、その力の支配が及ばなくなってくる時の、抜けきらない苦しみと、結局入りきれなかった中途半端さ、どちらにも留まり続けられない自分の定まらなさを、
どう扱っていいのか判らずに、
空想という逃げ場にとりあえず逃げる事が多かった。


多分本能的に、その力に完全には融合しない距離を、保ってきた。

その力を、私はどこかで、意識してきた。

何か、どうしても、その力に溶け込むことに、抵抗があった。

 

この力はこの社会では常にある。

その力を、識別出来ない程自分の中に融合させてはいけない。
多分、
本当に自分の命丸ごとを見方に付けるつもりなら、
ここから抜ける必要がある。

子を感じ取ろうとしたときに、
この力の支配からある程度離れる必要があった。

感じる事から逃げようとする癖に、意識的になりながら、

この一瞬一瞬を、逃さず生き切る癖に変えていこうとしている。

一つ一つの力の質に意識的になり、それらとキチンと分離し、又、対立せずに上手く付き合うこと。
人間関係と同じだ。

多分、こういう事を丁寧に出来る様になれば、
人間とも、他の方々とも、全ての関係性に悩む事が無くなるだろう。

世界を信頼するとは、赤子の様に融合するのではなく、自分として立ちながら、他の力と意識的につき合える、
その付き合いへの信頼関係の育て方なのかも知れない。
そんなことを、思いついて、
もっと、そこに意識的になろうとしている。



食用ホオズキの苗。蒔いてから芽が出るのはとても遅く、とても小さな発芽で、雑草と間違えやすい