剥いても剥いても、まだ汚れているような気がして、
自分が好きになれない。

  
そんな気持が、上がってくることがある。

いまだにある。

 

 

何かで、自分が注目されたり、誰かにお礼を言われたりすると、
私は、逃げたくなる。
自分の喜びを、見ている他者が嫌な思いをするという感覚が、ある。

  

自分が喜んでいる時、いつも、水を差されてきた。
喜ぶと、うるさがられた。

 

 

人の喜びを複雑に感じる自分が居た。

強く相手の喜びに意識を向けなければ、チャチを入れて台無しにしてしまうかもしれない。

私は、こんな事一つ一つに、とても注意を払わなければいけない自分を、又、それを恥じる自分をも、子守りをするように見て行かなければならない。

 

  

人前で自分が誰かから喜ばれる時、それを有難うと受け取るどころか、いつも逃げだしたくなる。

  

そのザワザワが、いまだに、とれなかった。

 

  

  

友が、
自分の状況は厳しくて、笑えないのに、皆に私が喜ばれている場で、一緒に喜んでくれた。

  
本当に、良かったねって思ってくれているのが、わかった。
 
それが
  
こんなことが、

私には、
本当にうれしかった。

 

  
誰かが一緒に喜んでくれるという奇跡が、涙が出る程嬉しい。

それが、
何か、
私の存在そのものを、肯定されたようで、

いつまでも、いつまでも、
体に残っていて、


涙が出る。

  

何かの拍子に思い出して、涙が出る。

 

  

  
気持ちを沢山沢山、もらって、

色とりどりの、想い方を、手渡されて、

  

記憶は、どんどん上書きされ、塗り替えられ、

変わっていけるこの人生が、愛おしい。
  
  

毎日、カルマの嵐だった。
何年も、何年も、
いつ終わるとも知れない、
生きる事は、償いだったのかも、知れない。

 

  

嵐は去り、

今、私の時は、とてもシンプルだ。

ただ、したことが直で帰ってくる。する前に、何かに止められることもある。

  

見返り等 求められるはずもない、誰に気付かれる事もなく、私が忍耐強く愛してきた人達が、

すっと、澄んだ愛情を返してくれるようになった。

そんな日がくるなんて、

 

こんな時が、

私には、嬉しくて、たまらないんだ。

 

   
長い長い時を経て、
私は許されたんだなって、

 
私の深い処で何かが、そんな風に想った。