今まで知らなかった見えない世界が、少しずつ身近になるにつれ、
沢山の昔話の解釈が変化していき、世界の見方も変わってきた。

そんな中でも、
最終的には、何一つ、本当の事を知る事は出来ないという、螺旋の一巡りに戻ってくる。

...

全ての事が茶番の様に軽く、
そこで、自分も夢中になって茶番をしていくことを、自分に許して行きたい。

自分に起こる現実を、自分がどう解釈するか、


使命があるって思うとテンション上がる。
そこにハマるだけの材料を、私は持ち合わせているし、そう思わせてくれる人も沢山いる。
   
そこに生きれば、大抵の大きな目的の為に、目の前の欲求を抑える事はたやすい。    大人の立派さを演じる事が容易になる。
   
そういう思考遊びで愉快に生きれるならそれでもいいと思う。
それも一つの、茶番なんだ。
自分が判っていればいい。
  
    
固定した見方を育ててしまった人と、本当の交流は出来ない。
周りがその人の世界に合せる一方通行しか、ないのだから。
  
それって、どうしてそうなるか、
丁寧に、丁寧に、見て行くと、
余裕が無い、相手の世界の大変さが見えて来る。
  
  
そこに、いつでも、受容 というキーワードが出て来る。
  
一つ、一つ、自分の中に通し、消化ていく、
そこで初めて、自分の力に出来る。
  
一度に沢山入れたり、自分の必要より他人の必要を優先させざるを得ないと、
普通に大変だろう。
   
消化不良が習慣になっていけば、
入って来る手前で止めたり、そのまま排泄したり、
他の臓器も負担しながら、体はその対応にかかり切りになり、常に緊張状態になる。

他の事をする余裕なんて、なかなかねえ・・・
    
心は体について、同じような構造をしている。
 
       
消化の習慣がつかなかった、
そんな幼少期を過ごした人を、沢山知っている。私も含めて、

    
  
子どもは、感じている事を一から十まで言う事で自分の中に受け入れる力をつけて行く。
だからいつか、必要以外は自分の中に治めておけるようになる。
   
最初の表現の機会を得られなかった人は、
やっぱり最初を何処かで上手く取り入れてやらないと、一足飛びには行かない。
  
  
発達生理の欲求は、絶対に、スルーしちゃダメだよ。
それが手に入ろうと入らなかろうと、
自分を騙さないで、痛みさえ、全部気付いていて。
 
もっと、泣いて、もっと笑って、
たっぷり自分の命の時間を大切に。
   
       
人は、我慢を習慣にすると簡単に感覚が麻痺してしまう。
麻痺した分だけ、相手の事も判らなくなる。
   
  
 
  
花を咲かせる為の必要な準備を、見極めて、
  
手入れしていくんだ。
   
いつでも、気が付いた時からで、充分。