ボロブドゥールは「文字のない本」
さてこのように寺院をまわり終え、そのあとは敷地内にある2つの博物館を訪れた。
残念ながら船をテーマにした博物館は展示物が少なくさっと見終わる程度であったが、考古学博物館のほうは多少見どころがある。
そこにあった説明書きの一つにこのような言葉があった。
《ボロブドゥールとは、本のように読むことができる寺院である。
寺院の浮き彫りは、我々の人生をインスパイアしたり、我々が体験したりできるストーリーを伝える。
あなたはそのメッセージを読むことができるだろうか?》
ボロブドゥール寺院は浮き彫りを見ながらめぐることで、仏教の物語が理解できるという仕組みになっている。
それはメキシコの歴史を建物の壁に大規模に描いた100年前の「メキシコ壁画運動」にも通じるが、文字がなくても情報の伝達はできるのだ。
絵や浮き彫りというメディアは使い方次第で文字よりも強い。
読み書きができない人間にも伝わるからである。
またボロブドゥール寺院は仏教のコスモロジー(世界観、宇宙観)を具現化していると言われており、真上から見ると方形と円形が組み合わさった曼荼羅のようである。
寺院という場に幾重にも仕掛けがあるというのはボロブドゥールの大きな特徴であり、たとえ自由時間が短くとも、その場に行かなければ味わえない体験であった。
そして「浮き彫りのストーリーを読むことができるか」という問い。
それはまるで現代の旅人の度量を試すかのようであり、おかげで撮りためた浮き彫りの写真を見ながら、
「これは何を表しているのだろうか」
と考えるハメになったのであった。
(二頭立て馬車。
車輪が凝っている)
(遺跡はブロックを積み上げて作られており、ところどころピースが欠けている)
(服のひだや足の指まで、1000年以上経っても残っている)
(やや平面的装飾的でありつつ、鳥同士が重なっているのがおもしろい)
(擬人化された猿)
(動物の営みがたくさんでてくることが意外だった)
(ネコ科の動物がケージの中に飼われている?)
(仏教は陸のイメージだったが、亀や魚も登場している)
(「いやー紫外線強いな今日は」
……という場面が仏教の物語にあるのかもしれない)
(柱のようなものの飾りが、西洋の雰囲気を感じる。
手にしているのは果物か何かであろうか。
もっと近づいて撮ればよかった)
(海の生き物が波の合間にたくさん)
(見たかった船をついに、自由時間終了間際に発見。
船体やマストのつくりは、当時こんな感じだったのだろうか)
(裸の女をはべらせている。
最近このような描写を見ると「もしかすると『上納』されてきたのだろうか」と考えてしまう。
……などと世俗的な読み方しかできず、わたしの旅人としての度量はこの程度であった)