またまた宗教的な話になってしまいますが、「托鉢」というものを形は知っていても、宗教に無頓着な私は意味は知りませんでした。

 

托鉢とはお坊さんがお経を唱えながら鉢を持って歩き、お布施や食べ物をもらうことなんですけど、私ずっと「がんばってくださーいチュー」と応援するような、募金のような意味だと思っていたのです。

 

でも、よく知ると、お坊さんは「欲」を捨てて修行をしているわけで、托鉢に入れられた食べ物がどんなものであれ、ありがたくいただくということであり、また与える側は自分の立場に関わらず、自分が何の見返りも求めずに人に与えることで執着を減らし、またそうしたことでつなぐ縁が人を支えるという意味があることを知りました。

 

そして、あー昔「ペイフォワード」という映画があったなぁと思い出しました。

若い時に見たから「はいはい」と適当にロードショーを覗き見した程度だったかな。

「ええ話やん」くらいにしか思っていなかったと思います。

 

これは自分が受けた善意を他の人に返すという話です。自分が善意を受けた相手ではない相手に返すということに意味があることを今はよくわかります。

 

 

 

 

私は娘が障害児で生まれてきて、色んなことの見方が変わってきました。

 

最初はずっと「なぜ」、「なんで」と思って世間を恨んできました。今もまだもちろん苦しい時もあります。でも、腐ってしまっては大切なことが見えなくなってしまうと思っています。

 

人の不幸も、人の幸せもそれぞれ違います。最初から不幸な人もいると思いますし、私のように思いがけず辛い思いをすることもあると思います。

 

以前、辛辣な言葉を書き連ねる私に「言霊があると思います」とか、「人に向ける言葉に刃は形を変えて自分に返ってくることもあります」とやんわりアドバイス頂いたこともあります。

 

私もやはりそうした見えない善意に支えられて、今、ここにこうしたことが書けるようになってきたのだと思います。ありがとうございます。

 

娘や息子を育て、毎日生活する中で心のどこかでいつも何かすれば何か得られるはずだ、与えればお礼を言われてるのが当然だとかそういう思いは自分を苦しめる欲になり、自分自身を苛立たたせいたのだと毎日思い返しています。

 

実行するのは難しいですけど、ふっと心が曇る時、そのことを思い出したいと思います。