コメント少しずつ返していますので、またお時間があればお返事読んでいただけたらと思います。

 

以前、私のブログを読んでいると辛くなる、自分で自分を追い詰めているようで、と責めている意見ではなく、気にかけてコメントやメッセージをいただくことが度々ありました。

 

私はその度に、「違うの。ただ辛い気持ちを吐き出したいだけなの」と思っていましたが、

結果的には、、、

 

「責めてました。」

 

自分を責めて、家族を責めて、社会を責めて。責めすぎて、許すことも許されることもできなくなっていました。

 

そして、いつも「正しさ」を求めていました。相手にも自分にも、世間にも自分の中の「正しさ」を追い求めていました。

 

完全に潰れてから、自分はパンパンに膨らんだ風船だったんだなと思いました。

周りが「いつ破裂してもおかしくない」と言ってくれているのに、「大丈夫です!」といいながら、空気を入れ続けていました。

 

破裂して、ペタンコに小さく萎んだ抜け殻のような風船を見て、「あぁ、自分が頑張っていること」はそれほど重要でなかったことに気づいたのだと思います。

 

娘との時間はまだまだ大変なことも多いですが、以前と違って、大変さが当たり前と思えるようなってきました。

 

変わった動作や癇癪で人の目線が突き刺さることもあります。そんな時は少し目を閉じます。当たり前ですけど、閉じたら相手は視界に入らない、そんな当たり前を体に覚えさせています。

 

そして、「ヘラヘラ」です。ヘラヘラ、ニコニコ、怖い顔をする必要もないけど、落ち込んでいる時は、自分にそんな風に笑わなくてもいいよ。と言ってあげます。でも、長年染み付いているのですぐにヘラヘラ笑います。コメントでいただいたように、「それも優しさ」からきている自分の癖と思えばいいと思って、深呼吸しています。

 

仕事も退職届を出したのですが、もう1年と言われたので、とりあえず3月までは続けますがいつでも辞める気持ちでいます。こんな時も、素直に「辛く、しんどい」と言えばいいのだと思います。迷惑になるとか、どう思われるとか色々やはり考えましたが、説明はいらないと思います。(結果的には後輩が、私に仕事をさせすぎ!と怒ってくれたようで、巡り巡って人が助けてくれるので、自分の普段の行いも間違いでなかったと思っています。)

 

私はいつも「〜しなくてはいけない」、と思っていました。きっと間違いではないと思います。でもいつしか、義務になり、それができない人を否定するようになりました。

人を助けることも善意ではなく、義務になっていました。

 

「自分が心地いい状態」を作りたいと思っても、いつも社会が作ったイメージを前提にしていたように思います。

 

自分が本当になにを望んでいるのか、それを叶えるためにどう生きていけばいいのか、毎日考え、障害児育児で疲れる毎日なので、美味しいご飯、心地よい家、大好きな本、それと適度に生きていけるお金、何より波風が立った自分の気持ちを落ち着かせる日常が必要だということが見えてきました。

 

ステータス、人とのつながり、車、ブランドのような嗜好品は今は望んでいないようです。

 

そう思うと少しヘラヘラする必要もなくなってきたように思います。

 

身近な心地よさを見つけ、嫌なことからは全力で逃げる。それでいいと思います。

 

もう、頑張れ、向き合えは、今の自分には合っていないと思っています。