おはようございます!

ピアノを練習していたり、作曲を独学で学んだりしているオレワタルです!

最近はピアノ練習の後に動画を撮って、その様子を毎日Youtubeに投稿しているので是非Youtubeチャンネルの方も覗いてみてください!

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今日は朝からすごく天気もいいし気温もちょうどいいのでランニングはもってこいな最高のランニング日和なのですが、まだタトゥーを彫ってから日が浅くて汗をかいたり日光を浴びることが許されていないので、体がそわそわしているwataruです。

 

ということで本日は「どこまでいっても僕らは一人」というテーマでお話をしていこうと思います。

 

というのもなんだか小説のタイトルのようなテーマになってしまったのですが、そんなたいそうなものでもないし、ましてやそもそも今日お話しするものはプラスになるようなものでも、何かためになるような内容でもないので、その辺は悪しからず読んでいただければと思います。

 

というのもすごく私ごとなのですが、今日の朝母から連絡があって小学校から実家で飼っていた愛犬が亡くなったという連絡があったんですね。

 

まずこの報告を受けて1番最初に思ったことは”遂にこの時がきてしまったか”ということで、まあそもそも僕が小学生の頃から飼っていた犬なので、年齢にしたら13歳とか14歳になるくらいのお年寄りで、かなり長生きをしたそんな犬だったんです。

 

なのでまあ正直ここ2、3年くらいは”いつ天国からお呼びがかかってもおかしくないだろうな”とも思っていたし、その覚悟ができていた僕からしたら母からの連絡があった時に”ああ、本当にこういう終わりってくるもんなんだな”ということが1番最初に頭をよぎったことで、まあ色々な感情も思い出もありますがまずは彼女の最後をお見送りするのと、その際に今までの感謝を伝えたいと思います。

 

という気持ちと同時にもちろん悲しいは悲しいんですが、どこか上の空というか、どこか真正面からこの悲しさを受け入れられていない自分もいるなあというところにも気づいていて、この不思議な気持ちについて少し考えてみたんですね。

 

というのももちろん悲しいなと思う気持ちはあるし、できることならまた会って散歩をしたり一緒に遊んだりしたいなとも思うんですが、涙が出るくらい悲しいかと言われたらそうでもなくて、今仕事も何もかも全てを投げ出して亡くなった愛犬のところに走り出せるかと言われたらそうすることもできない自分がいるのも事実で、こんなに自分って愛のない人間なんだなと思ったんですね。

 

まあここにはもう実家を出て数年、もはや10年近くの時が立っている故に家族とはいえど少し遠い関係になっていたという側面もあると思うし、僕というよりかは父にすごく懐いていた犬なのでそういう側面もどこかで関係がしているのかもしれませんが(後者は関係なさそう、、、)、多分こういうことを思ってしまう1番の要因はそもそも僕自身があまり他人とか他の人とかに影響を受けることなく孤独でいるというところ部分にあるのかもなと思ったんですね。

 

というのも、今日のタイトルにもある通り基本的に僕は”どこまでいっても人間は一人なんだろうな”ということを結構思っているような人間で、結局誰もが自分の為に、自分の人生を華やかにするために生きているのだから最終決定は全て自分で行うし、それがいくら親に反対されたものだからといって自分がいいと思ったことはするし、やりたいと思ったことはするしというようなスタンスを持っていて、まあ実家の愛犬に対してもあなたが必要だと思うご飯とかお水とか寝床とかそういうものは与えるし、散歩にも連れていくけれどあなたはあなたで楽しいことをしていてて良いよって思っていたし、こういうまあよく言うと干渉しないスタンスが今回のこの愛の薄さの要因になっているんじゃないかなと思ったんですね。

 

正直今はまだ連絡をもらってから数分しか経っていないし、この曖昧な気持ちがなんなのかすらわからないまま書き出してみたので、理論も説明もぐちゃぐちゃになっているかもしれませんが、まあとりあえずこういう自分の考えが固まっていない時に無理矢理にでも言葉にしてみるというのも面白いかなと思ったのでお話をしてみました。

 

ということで本日は「どこまでいっても僕らは一人」というテーマでお話をしてみました。

ではまた!