とうちゃんのモノサシ -14ページ目


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J・B・ワトソンとモンテッソーリ
ワトソンは1876年アメリカに
モンテッソーリは1870年イタリアに生まれている

ワトソンは1912年にそれまでの心理学に喧嘩を売ったと思う
その翌年1913年モンテッソーリは世界中で最も有名な女性として訪米している

この2人が残したものを追うと
とても興味深い

僕は、ふたりは大きなシンクロニシティーにあると思っている
もちろん根拠のない直感です

この頃、日本は明治から大正へ

だから何だってことだけれど
人が好きで、本の好きな人は、探して読んで見て欲しいです

その後の歴史を振り返りながら・・・


非常に興味深い内容だと僕は思います

チャレンジ2日目

これまでにも
こうやって色んなことを自分が納得できるまで考えては反論し、またそれに反論する
なんというか、一人水掛け論みたいな
一人禅問答みたいな
一人で鶏が先か卵が先かに対しての見解を議論するみたいなことを
長い時間をかけてやってきた

普段は手書きでやっているけれど
ブログという“他人の目に触れる”媒体の影響を確実に受けた状態で流れ出る文字で、どのような結果が出るのかをテストしてみている。

この結果はすぐ出ないです。

たくさんのクエスチョンを強制的に意識や無意識に押し込み
(まるで無理矢理飼料を詰め込まれる水鳥のように)
しばらくしておいしい結果が返ってくるのを楽しみに待つのですね
(みなさんフォアグラ好きですか?僕は水鳥が好きですが食す必要性を感じません)

今回、相手の気持ちを考えるのは大切かどうかに切り込んでいるけれど
本音の部分は、どうでも構わない

いつだってそうだ

たくさんの人が「それは良い」とか「それはいけない」ということの向こうには
何かしら興味深いものがある

歴史に残る聖人や哲人が残してきた言葉は似ている
なぜ似ているのか
同じものを見ているから似ていると考えるのが自然だけれど
印象というのは複雑で
僕が似ているように見たいのかもしれない
本当に似ているのかもしれない

ことの真相にはあまり興味がないが
僕は似ていると思っているということだ

ところが
そのような名言に多々触れるようになると
僕が育ってきたなかで受けとってきたメッセージが
とても恣意的だったり、個人的だったり、利他の衣を被った利己的なもののように思えた

高校に上がる頃には
両親や教師や世の大人の言葉を受け止めることが出来なくなっていたなぁ・・・
本当につい最近までそうだった。


きっかけは、あれですよ
トイレ掃除。
素手で。
しかも公衆の個室で。

我があると出来ないらしい

「そんなの簡単だよ~」

そう思った。
根性と気合いで行けると思ったけど、無理だった。

でも、やるとすごい効果があった。

自分の外側と内側は完全に別物で。
内側の責任は全て自分にあると分かった。

子どもを助けるために炎の中に飛び込むのは
気合いや根性や勇気では無理だと思う
それ以上の何かが働いているからできる

そんなことはなかなか経験できないし
わざわざ、経験することでもないだろう

トイレなら安全だ
健康被害もない
バンジージャンプよりも身近だし
なにより
キレイにすると
後から来た人は
「あっ、きれい!良かった!」となる
陰徳は積んだ方が良いらしいし
お金の流れが良くなるらしい
個人的にはそれを実感しているが
楽しみの一つとして扱っている

我は本当に少なくなったと思うし
執着も少なくなったと思う

残るのは乳幼児の頃の傷みなんだろうな

世の中には
そのレベルを癒すらしいワークなどが多数存在するが
なぜか興味が湧かないのも根っこは同じなんだろう

愛するのと
可愛がるのは

別だよね



<追記>
しばらく、水面下での検討になると思いますので
この件は気付きがありしだいアップします

読み返してみて、最近あまり面白くない
分かりにくいややこしい話になってきているので
反省しました

チャレンジ1日目

只今、思考をほじくり出してます



これを行うとどう思うだろう
これを言うとどう思うだろう

そんなことを行ってどう受け止めると思ってるの?
そんなことを言ってどう受け止めると思ってるの?

やられた身にもなってみろ
言われた身にもなってみろ

あなたはそんなことをやられたらどう思うの?
あなたはそんなことを言われたらどう思うの?



言葉とは不完全
目で見たもの
耳で聞いたもの
手で触れたもの
鼻で嗅いだもの
舌で味わったものを
完全に表現することはできない

言葉には
必ず、表現できていない何かがある
必ず、意図がある
必ず、個性が反映される

理解は言葉とイメージと体感覚を使う
己の内側で行われる全ての認知作業は
理解と不理解を合わせて100%になる

しかし、他の内側で行われる認知作業を知ることは
原則として不可能

相手が何を考えているのかを知りたいと思う意図はどんな意図か

自分が得るため
相手に与えるため
自分や相手が複数の意図を代行することもある

得るか
与えるか

真実は愛にしかないと言ってしまえば話は簡単だ

自他ともに愛ならば
互いに相手のことを気遣いあう必要はない

自分の全てを与え
相手の全てを受け入れるから

そうではない
現実はそうではない

相手の反応を思いやることに利己心はないのか
利己心があったら相手を思いやったことにはならないのか

利他的な行動発言とは

利他的と自己犠牲の違いとは

自己犠牲に我欲はないのか

果たして人は
他のために生きることが出来るのか

他に影響される自と
影響されない自の違いとは
違いがあるのかないのか
違いに意味や価値があるのか

このような考察に意味や価値があるのかないのか

宗教や信仰に解を求めずに解を得るには
つまるところそれは己を神とし仰ぎ信じることにつながる
己が神ならば
他もまた神なり
互い神であれば
優劣も善悪もなし

ん~

本質で生きることになぜ勇気が必要か
利己心の現れではないか
利他の心で生きるならば勇気など必要ない
他の全て受け入れるならば
他の喜怒哀楽に発する全てを受け入れるべきではないか

そして己を愛するなら
たとえそれが出来なくとも
それを許せるではないか

だからといって
それが相手を思いやらなくても良いという理由にも根拠にもならない

ん~・・・・

(何のために)

ここだけが引っかかっている
相手のためと言いながら
自分のためであることがあるのではないか
それに引っかかっている

どうしてそれに引っかかるのか

詐欺的のような気がする
どうして詐欺的なのか
それのどこが詐欺的なのか
なぜ詐欺はいけないのか
だますとは
だまされるとは

だますこと
だまされること


自分を守りたい
だけど
相手をダマしてはいけない

相手に利を与えたい、分かち合いたい
だけど
自分は傷つきたくない、失いたくない


ん~・・・
やっぱりか・・・

母親の「けげんな表情」
父親の「無表情な接触」

にんげんだものしかたないよ

また明日もくるから
一緒に考えよう

チャレンジしよう

えっと、僕、チャレンジします



何にチャレンジするか・・・



さっき、気がついたんです

僕はまだ、自分以外の誰かに嫌われてはいけないと思っていることを

だから、その思いをやめるためにチャレンジします



今から始めます。

いきなり本丸から攻め込むか・・・



相手の気持ちを考えることに潜む(ような気がする)パラドックス



「相手の気持ちを考えることは大切だ」



一般的に使われている「相手の気持ちを考える」という言葉で表現された意図のほとんどは

もしかしたら相手の気持ちではなく自分の気持ちを考えているのではないか?



今夜の睡眠中はこれをメインディッシュにします。



おやすみなさい

できるだけ

お釈迦っちの言葉で

色即是空
空即是色

ってのがある
僕はもう日本人に生まれちゃったので
なんだかんだいって
お釈迦っちの影響を受けまくる環境なんですが
どうやら嫌ではないみたいで
年々、居心地が良くなっているような気がしています

気のせいかもしれないし
単なる思い込みかもしれないし
そう思うことでストレスを見て見ぬ振りしてるかもしれない

かもしれないけれど
とくに変えたいとも変えようともしない所を見ると
まぁ良いんじゃないかと思ってます


そうそうさっきのお釈迦っちの言葉

色即是空
空即是色

これね、僕は救われたって思った

色=まぁ、現象だね。感じ取れることは全部、色。
空=からっぽで透明の入れ物ってこと

つまり

身の回りにあるすべてのものや起こったことは、実はからっぽで透明な入れ物
からっぽで透明な入れ物が、実は身の回りにあるすべてのものや起こったこと

ってこと

お釈迦っちは
「身の回りにあるすべてのものや起こったことって、存在はするけど意味ないよ~ほんとだよ~」
ってみんなに教えてまわった(これだけじゃないけどね)
そしたらこんな意見が出てきた
「意味が無いのに、なんでは私はこんなに苦しいんだ?」
もっともだ。
中には「じゃ、どうして私はこんなに幸せなんだい?」って人もいただろう。

その疑問にお釈迦っちはこう答えた。
「それは、あんたが意味ないものに勝手に思いをもって、思うようになってない(思った通りになってる)と言ってるだけなの。苦しいのが嫌だったら何にも思わないようにすればいいんだよ」

・・・・・

僕はそれが分かってから
思っても良いし、思わなくても良いと、思っても良いことにした。

すると

らくちんになりました

とたんに

変わり者になれました

そして、とっても幸せです

お釈迦っちのおかげさまです
ありがとう

幸せになる方法

クーちゃんは四歳です
僕の中ではクーちゃんもゆう君も天使です

かわいいってことを表現したいのではなくて
より神に近いって意味で天使です

僕は何かの宗教に所属しているわけではないので
あくまで表現手段として神という言葉を使ってます

一応、神の定義をもってます

 神=僕(宇宙)が存在するしくみそのもの

そんな感じです。
まぁ、日本人的ですね。
今後、考えが変わるかもしれませんが、現状はそんなとこかな。

つまり、僕は神から発生したってことです。


去年の暮れにクーちゃんが面白い質問をしてきた

 「とーちゃん」
 「なんやくーちゃん」
 「どうしたら幸せになれるん」
 「知りたいの?」
 「知りたいから聞いとんやんか」
 「そうやな」
 「どうしたらいいの?」
 「し・あ・わ・せってゆって笑えばいいねん」
 「そっか」

とんでもなく素直です。
僕の目からウロコが落ちました。
しかも、即実行します。

 「なぁなぁ、ひーじーちゃん、ぼくなー、し・あ・わ・せ(ニコッ)」
 「まーちゃん、まーちゃん(バーバとは呼ばないルール)し・あ・わ・せ(ニコッ)」

本当に天使に見えました
家族中を回ってから、玄関のお花とか台所のリンゴとか、トミカとか、プーさんとか
手当たり次第です。
おかげでみんな幸せ。

その時、不思議なことが起こりました。
なんと宅配で僕の実家からクーちゃんへ3日早いクリスマスプレゼントが届いたのです。

クロネコさん大好きなクーちゃん
しかも、クーちゃん宛のお荷物です。

クーちゃん大喜び
そして僕の実家へ電話をするというのです

 「じーじ、僕なプレゼントうれしーねん!めっちゃし・あ・わ・せ」

うちのおとん泣いてました。


こどもはやっぱり神に近い


ありがとう、クーちゃん

今、ここ

最近、何度も何度も飛び込んでくるメッセージが

今、ここ、に生きる

どんどん未来がやってきては
過去として流れていく

生きる=未来へ向かうこと

この古いパラダイムには世話になった。
でも、もう必要ないな。


ありがとう
感謝します

クイズの解答

いかがでしたでしょうか?
問題をまだお読みでない方は

クイズを出してみよう!

をご覧下さい



・・・もったいぶります。


答えを探してる人って多いですよね
なぞなぞやクイズやテストなど

答えが用意されている問題ならまだしも
答えが用意されていない問題にも「答え」を求めてしまう

クセでしょうか
習慣なんでしょうか

まぁ、どっちでもいいのですが・・・


今回のクイズも完璧な答えはありません
でも、自分の考えと僕の考えの違いを
色んな視点から見つめることで
今の自分自身の位置を知ることが出来るかもしれませんね


では解答です


「誰でも何でも信じて素直に行動できる人」です


※本当のことを知っている人がどのような人物で生き方なのかは
 ややこしくなるのでここでは考慮しません。


いかがでしたでしょうか?
ご意見ご感想お待ちしております

クイズを出してみよう!

もしかりに
本当のことを知っている人がいるとする

何か困った時
その人に「どうしたらいいの?」って訪ねると
必ず正しい答えが返ってくる

そんな人がいるとする

いるとも言い切れないし
いないとも言えない

もしかりにそんな人がいるとする

世の中には
その人の存在が
役に立つ人と
役に立たない人がいる


僕は前者でありたい


本当のことを知っている人の存在が役に立つ人ってどんなひと?



<追伸>解答は今夜10時頃にアップします!

やっぱり楽しい

理由はもうなんだっていいんです
興味が全くない

やっぱりね楽しいから続けている
楽しいことってやめないよね


なんの話かって?


立ち読みです。
古本屋さんで立ち読み。
毎月毎月
おこづかい90%は本に使ってます
図書館も好きなんだけどね
マンガないでしょ
昔好きだったマンガを30分ほど立ち読みすると
テンション上がるんだよね~

もう楽しくてしかたがない!