清和天皇は母方の祖父藤原良房の後見の元、
3人の兄を退けて生後8カ月で皇太子となり、
文徳天皇の崩御に伴い、9歳で即位した。
幼少のため良房が外戚として政治の実権を
握った。まもなく良房は摂政に任命された。
第56代清和天皇は第一皇子9歳の貞明親王
(第57代陽成天皇)に譲位、2年半後に出家、
畿内巡幸の旅に入った。丹波水尾の地では、
絶食を伴う激しい苦行を行い、水尾を隠棲
の地と定めたが、まもなく病により崩御。

陽成天皇は生後3カ月足らずで立太子して、
9歳で父・清和天皇から譲位される。父帝に
続く幼年天皇の登場であり、母方の伯父・
藤原基経が摂政に就いた。清和上皇が崩じ
てからは基経との関係が悪化、基経と国母
・高子の兄妹間の不仲と権力争いもあった。
そうした中、宮中で殴殺事件という未曾有
の異常事に、天皇が関与していたとの風聞
が立ち、基経から迫られて退位に至った。
幼少期に奇矯な振る舞いが見られたものの、
退位時には17歳(満15歳)であり、この事件
は疑問点が多く、作為的とも云われている。

源能有(ヨシアリ)は文徳天皇の皇子で、兄弟と
ともに源姓を与えられ臣籍降下した。能有
と兄弟の子孫は後世文徳源氏と呼ばれる。
弟の清和天皇それに続く陽成天皇の治世を
よく補佐した。その能力は藤原基経からも
評価され、その娘を娶った。光孝・宇多朝
でも順調に昇進し、藤原基経の没後には
左大臣源融・右大臣藤原良世がいたものの、
能有が事実上の政権担当者として寛平の治
(宇多天皇の治世)を推し進めた。子の当時
(マサトキ)は従三位中納言に至るも、その子孫
を含め、文徳源氏は公家としては没落した。

貞元(サダモト)親王は清和天皇の第三皇子。
藤原基経の娘を母とする子兼忠(カネタダ)は、
源姓を賜与され臣籍降下し、村上朝に参議
となり公卿に列した。
貞純(サダズミ)親王は清和天皇の第六皇子。
源能有の娘柄子を母とする子経基(ツネモト)は、
源姓を賜与され臣籍降下し、武家の棟梁で
知られる清和源氏の祖に当たる。この系譜
から鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を
開いた足利尊氏など多くの有力武家を輩出。

源清蔭(キヨカゲ)は陽成天皇の皇子、村上朝
で正三位大納言に至り、太政大臣藤原忠平
が没すると、左右大臣に並ぶ藤原北家嫡流
の実頼・師輔兄弟に次いで太政官で第三位
の席次を占めた。同じく陽成天皇の皇子・
元平親王は、関白・藤原兼通の正室となる
娘(昭子女王)を儲けた。