同級生のAは、郊外の有料老人ホームで介護士として勤務している。先日そのAと飲みに行った時に、こんな話を聞かされたのだった。

 

Aが担当していた入所者に田中さん(仮称)という老人男性がいて、先日肺炎で亡くなったのだという。田中さんは現役の頃は地元大手企業の役職者だったそうだが、若い頃に離婚していて子供はおらず、近しい身寄りもほとんどいなかったらしい。

 

そんな田中さんが習慣の一つにしていたのが日記なのだそうで、なぜか朝食の前に机で日記を書いている姿を何度か見かけていたという。亡くなる直前にはベッドの上で書いていたのか、ボールペンを中に挟んだままの日記帳が遺体の横にあったらしい。

 

遠い親戚という人物からの依頼もあって、遺品は引き取られることなく全て処分されたらしいが、その日記帳にどの様なことが書かれているのか少し気になったAは、遺品整理の時にこっそり読んでみたのだそうである。直近に書かれたらしい数頁にざっと目を通すと、その中身は以下のようなことだったらしい。

 

○月16日

目が覚めて時計を見るといつもの5時5分前

また夢を見ていた

目が覚めて、それで夢だったのだと理解した

あれほど現実的に感じられ

夢なのではと疑うこともなく

あの世界の中でただ生きていた

旅先で昔の知人と会い

食事を共にし

日々の生き方に対して助言をもらい

そろそろ日も暮れた頃だからと

友と別れて歩き出したら

なぜか帰りの道順を失ってしまい

果たしてこれからどうしたものかと

途方に暮れたところで目が覚めたらしい

この頃どうも

現実と夢との境がわからなくなることがある

今が本物の世界として間違いないのか

誰かに教えてもらいたい

 

○月17日

ここに入居してそろそろ5年が経つ

毎日が同じことの繰り返し

仕事を辞めてからここに来たが

それを最後に大きな変化はなく

朝は5時には目が覚め、夜は9時に眠る

毎日同じ日課をこなし

会うのはいつもと同じ職員、そして同じ入居者

毎日同じ食べ物を食べ、同じ挨拶を交わすだけ

その点、夢の世界は変化に富んでいる

何をするのか、誰に会うことになるのか

全く予期できないのだからワクワクする

さて、今夜はどんな夢を見ることになるのか

夜が来るのが待ち遠しい

 

○月18日

また夢を見た

あぁ助かったと思う一方

目が覚めたことがとても残念に思えた

もう少しで山頂に到達できたはずなのに...

視線を足下に向けると

左右風に靡くザイル

その先は闇に包まれていて下界に続く

いつもながら足のすくむ思いがする

さあ、頭を上げて前に進もうと

右手を伸ばしたところが

岩を掴み損ねたのだった

体が宙に浮いたと感じると同時に

落ちる、落ちる... 奈落の底に落ちていく

これで自分はもうお終いなのだと覚悟しつつも

宙に身体を任せたこの自由でふあふあした感じが何とも心地いい

もう少しこの感覚を味わっていたいと

思った次の瞬間に目が覚めたようだ

それにしても昨日からやけに息苦しい

 

○月19日

今朝もいつも通りに目が覚めて

まだ生きているのだと悟った

胸が苦しく喉が渇く

汗で寝巻きがジっとり湿っている

熱がまだあるのだろう

昨夜の夢は一体何だったのか

細かなことは覚えていないが

懐かしい誰かと会っていた様な気がする

だが、会って何を話し、何をしたのか...

ただ何となく

これがお迎えなのかもと感じたが

結局この世に舞い戻るとは

 

○月20日

朝が来たようだ

自分はまだ生きていたのか

それともこれも夢なのか

さっきまでいた世界は一体、

もう一度戻りたい

 

○月

ありがとうございました

また夢を見せてくれて

夢に戻ることができて

 

Aはよほど気になっていたのだろう、亡くなる前に書かれた数日分を写真に撮りスマホに保存していたのを見せてくれたのだった。さらに遡って読んでいたのかも知れなかったが、Aはそれ以上中身のことを語ることはなかった。

 

これと言って他愛もない老人の日記と言ってしまえばそれだけのことだが、夢と現実社会を混同してしまう頃が臨終を迎える時なのかも知れない、とAはさも意味ありげな表情でこう話した。

 

夢はあの世に魂が還るのに慣れるために見るのだと何かで聞いたことがある。ちなみにその日記も他の身の回りの品と共に処分されており、この世には残されていないらしい。