やっぱり湿度が高くて、絡みつく。こういうのはやっぱり苦手。

ということでギリギリで駆け付ける。六本木アートナイトの企画なのに夜じゃなくて日中に出かけるのはいかがなものかと思いつつも仕方ない。小寺さんの作品は鑑賞というより体感や体験に近いと思うのだけれど、気合を入れて新国立美術館に。ただ、これ六本木駅から歩いてくるといい感じなんですね。先に本丸に攻め込んでしまったようで、逆走するかたちで街中に。フィラーなんて自分の中に使ったことのない用語で知識もない。だけど、調べてみると空白を埋めるものだったり、言語学ではつなぎみたいな意味もあるらしい。結果的に短期間のつなぎであっても、街中を埋めることはとても難しかったことがハッキリした。視認した中のは6つのプラカードだったわけで、それによって埋められない、埋めることも恐らくは規制があって困難なわけで、その余白の広さ、深さに気付かされる。それにこのプラカード自体が、何を指していて、どういう意味があるのか、気づくことすらない可能性も大きい。そう考えると短期間でも埋めることができる無意味なものは、有意味であるのかもしれない、ということ。それに視認した6つのプラカードのみがフィラーなのかというとあやしい。六本木という街中にある広告などの類は小寺さんが仕掛けたものと呼応する可能性もあるのではないか。そして、そもそも余白は埋めることはできないのでないかということ。さまざまな制約の中で試みたことによって、できないこと叶わないことがハッキリしてしまう。だけど、それは、ルールとか契約だとかある鋳型によってハッキリしたものだと思う。ならば、その鋳型をぶっ壊すことで埋めるべきものなのか、その途方もない余白を放置するのか、埋め続けるのか、尽きることのない仮定が湧いてくる。やっぱり一筋縄ではいかない。「いる派」である小寺さんが、不在であることで感じる、存在はプラカードを持つ人に紛れているのでは?という疑念すら浮かんでくる。プラカードをもつ人たちの装備?というか持ち物がそれぞれ過ぎて興味深かった。

眠気に負けそう。なんでだろう。