行円寺通信8月号法話 | その名も、あきらくん~思いもよらない毎日~

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後世(ごせ)を祈る
                       住職 小谷 明



浄土真宗は現世を祈る教えではなく、後世を祈る教えだ、ということは耳にされた方も多いかと思われます。現世を祈る教えではない、というのは「世俗的な幸福、いわゆる健康、長生き、商売繁盛、家内安全などを求める、またはそれが仏様によって与えられるという教えではない」、というのはまだわかるのですが、「後世を祈る」ということが今ひとつはっきりされていない方が多いのではないでしょうか。



後世を祈る、と聞きますと「冥福を祈る」というような、自分の存在を魂として実体化し、死後は極楽というこれまた実体化されたいい場所に生まれる事ができるように願うのだ、という解釈をされている方も少なくありません。実際、中世の貴族は死後も現世と同様な生活ができるように往生を願い、その功徳を積むと云う事で宇治の平等院鳳凰堂に代表されるような寺院建立をしましたし、また庶民の間でも、現世での生活は散々であったけれども死後は素晴らしい世界に生まれたいと願う者も少なくはありませんでした。



それでは真宗のいう「後世を願え」という後世、後生といわれている世界は一体どのような世界なのでありましょうか。これは大無量寿経の「後生無量壽佛国」、後に無量壽佛(阿弥陀仏の)国(お浄土)に生まる」とあり、来生、来世、後に来るべき生涯のことと真宗辞典にはあります。一見しますと、死後肉体を抜けた私たちの霊魂が赴く先というイメージがわきます。



蓮如上人は御文の中で「後生は永生(ようしょう)の楽果なり」といわれています。この永生楽果(ようしょうらっか)といいますのは涅槃のことです。常(永遠であり)、楽(安楽であり)、我(絶対であり)、浄(清浄である)を性質とし、特に弥陀の浄土を指します。一切は縁によって生じ縁によって滅していくため(諸行無常)、永遠普遍なる我(私)というものは存在せず(諸法無我)、因縁が尽きれば元の静けさに戻るのみ(涅槃寂静)が仏教の教えですから、後世というのは、我々という現象存在を構成していた諸々の条件が尽きた、本来静まっていく世界、命のふるさとでありましょう。その世界に目覚めよ、というのが後世を願えということの内容であります。



平成137月に横手市で開催された南組真宗講座にて講師の池田勇諦先生はこのように述べられています。



「後生(ごしょう)は永生(ようしょう)の楽果なり、永正という言葉が出ているんですね。永生と書いておりますが、これを文字通り解釈いたしますと、永遠の生命、と。永遠の生命と受け取っていただいてよろしいのではないかとおもうのですけれども。そうしますと、後世というのは永生の楽果だと、こう抑えていらっしゃるところからすると、後世を願うということが表している意味というものは、永遠なるものに目覚めるということの一大事性ですね。そのことを表現していらっしゃるに違いない。(中略)だからその意味では時間的意味というよりも質的な意味ですよね。」と、「時間的な違い」でなく、「内容の違い」と押さえられています。



無我なる身を実体化し(有我)、自己と他者を分け、その自己の満足や安定を目指し日々膨張を続け、お互いに傷つけあっている私たちに対する佛からの呼びかけが、後生を願えという事であります。



なぜ現世をいのれといわないか。それは、我(が)の上に成り立ったものであるから、でありましょう。