都会のラクダ 0章 その2

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「で、渋谷。お前どうするんだ」
    野中先生は先程よりも少し大きな声で私に訊ねた。
    将来のこと、嫌が応にも考えなければならない時期であった。こないだ高校三年生になりましたからね私は。だから正直今になってまだ悩んでるなんて、ただでさえみんなから遅れを取っている状況であったのだ。
    大学に行きたくはない、会社勤めはしたくない、なんか楽しい仕事がしたい。漠然とそんな感じ。
    だったらば具体的なビジョンはあるのか、とか、それに伴う行動をしているのか、などと問われれば、んん、とか、あア、とかしか言えなかっただろう。
    人と同じことはしたくない、特別なことがしたい、だって普通はつまらないから。という至って普通の考えしかなかった。野心にもなりえない野心が具体性を伴わないまま、輪郭を持たない将来という器にただ流し込まれては流れ落ちていっていた。
    はて、私という男は。ぼうっとしていても仕方がないので流行りに乗っかってインドに自分探しでもしに行こうかと考えたが、少し現実味に欠けていたので考えを改めた。
    日々の暮らしの中で何に惹かれているのだろう。生活の中で何に魅力を見つけるだろう。自分がこれだと思えるものを普段の己の中から探し出そうとアンテナを張った私が、アンテナを張りすぎたことによる不自然さに気が付いてそうじゃなくてもっとフラットに興味を持てるものと考えた時にピンときたのが、何を隠そうコメディアンであった。
    とても単純に、人を笑わせる仕事なんてなんだか素敵だと思っていたからだ。
    素敵だと思った、と今考えてもこの上ない理由である。人生をその感覚に従順に生きるということはとても素晴らしいことだと思う。事、物、人、どれにしたってそうだと思うのだが、この時の私にとってコメディアンになるということは、職業として、インドに自分探しに行くことよりもリアリティに欠けていた。ふわっと、していた。
「渋谷?」
「ん、はい、えエとね」
    言い淀んで、唸ったり、はい、と無駄な返事を繰り返したりして時間を稼いでいた。
    あア、でもなんだか進路相談の場でコメディアンになりたいと口にするのはどうにも恥ずかしいな。それに野中先生は今お耳が遠いので、え?とか言って聞き返されるかもしれないな。一度口にするのも恥ずかしいのに二度も口にするなんて冗談じゃないな。だから聞き返されない為にはそれなりに大きな声で言わなければならないが、他の先生にまで聞こえちゃうのはなんだか嫌だな。もし聞こえちゃって、幾つもの才能と努力がしのぎを削る厳しくて華やかな世界にお前ごときが?とか思われちゃうのとても耐えられないな。
    数多のどうでもいい感情が渦を巻く。でも。それよりもこの場で、やりたい事なんて何もないですから進路とかわかんないです、って言ったり、将来の事まともに考えてないやつなんだって思われてしまう事は、若輩特有の無根拠なプライドが許さなかった。
    だから、耳の遠い野中先生には届くが、他の先生には聞こえない絶妙な声の大きさで、拙すぎる思いを然もありなんというスタンスで伝えてみようと思った。難易度高め。えエと。
「ん。コメディアンになりたいです」
    おオ。言ってもうた。恥ずかしい。しかし幸い、他の先生は聞こえていない様子。
    理想としてはこのまま先生が深く頷いてくれて、お前そういう水物の職業はなア、とか、そのことをお前のご両親とは相談したのか、とか、お前の気持ちはわかるがそんなに甘くないぞ、とか慎重にそういう返しをしてくれたら、なんかそれっぽい流れになるし一番良い。
    頼むから聞き返さないでくれよ、今のでいろいろ精一杯。ハードルの高いことを言った私の、このギリギリの表情も加味して頂けるとより一層大きなヒントになりますヨ。祈る気持ちで、反応待ち。
「え?」
    ちくしょう!ダメだった。
    私が口にした内容に耳を疑う、え?ではなく、やべエわかんなかったわワンモアの、え?である。
    もう、本当、そういうとこ。先生のそういうとこ。私の声のトーンとか雰囲気だけでも何かしらを察するでしょ。至極当たり前に聞き返しちゃうそういう機微だって先生。だからスカートの丈の注意の仕方が下手なんだよ、キモチワルイ!って逃げられちゃうの。全部繋がんの。ふん。
    同じ過ちを繰り返さない為にも腹を括らねばならない。一呼吸おいて、半ばやけくそで、難聴先生の耳にしっかりと届く様に。あのですね。
「コメディアンに、なりたいです」
「え?なんて?」
    罰ゲームかよ。もう。
    他の先生の何人かがこちらに視線を寄越した事により、野中先生以外には不本意にも届いてしまった事を悟る。絶望に頭を掻き毟る可哀想な私の目の前、趣深いそのご尊顔を近づけて、ごめん渋谷もう一回、なんて言ってくる野中先生が心の底から恨めしい。
    しかしもう、三度目を言う度胸も、三度目に耐えられるだけの器量も、三度口に出来る程の情熱も、なかった。
    最早開き直って。私は現状を偽りなく大きな声で、言った。はい。
「まだ、何にも、決めて、おりません!」
「そうか、そうか」
    こうして他の先生には届いたが、野中先生には届かなかった、私のコメディアンになるという幻の未来は、儚くもそこに続く道を閉ざすに至った。
    先生の耳を遠くしてしまった原因を作った私にもきっと責任はあるのだろうから、目の前でふんふん頷くこの先生のことを責めるわけにもいかないよね。因果応報っていうんだっけ、こういうの。自分で蒔いた種がここに来て残酷にも花をつけましたとさ。キレイデスネ。
    しかし、夢をひとつ失い、なんだか恥をかかされた心持ちになった私は、床の木目に落とした視線のまま、青髭坊ちゃんめ、とやる宛のない憤りを小さく独りごちた。
「おい!渋谷!今お前なんて言ったよ!?なア!」
    おオ、今のは聴こえたんだね。
    なアおい!今なんて言ったよ!と激昂する先生に、私は、なんで今のは、と訊ねた。
「なんで今のは聴こえるわけ」
「え?なんて?」
    もう面倒くさい。肩を落として職員室を後にした。クラスに戻って、席に着く。


(続)