「福祉が充実している国家」こそ「命の選別」をやりがちという「あまりに意外な真実」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由?
価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。
法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。
※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7adef026426c48fa031b3f50cfe3cb54095390cc
福祉国家が行っていた「命の選別」
福祉国家は、社会的弱者に配慮した政策を行うがゆえに人道的で理想的と思われており、今日の自由主義国家のほとんどが、程度の差こそあれ福祉国家であるといえる。
だが、その福祉政策を行うための財源は税金であり、しかも税金は無尽蔵ではないから、当然その支出にあたっては、厳しい選別が行われざるをえない。
日本でも旧優生保護法のもとで障がい者などに対して強制不妊手術が行われていたことが明らかになったが、政府予算のほぼ半分が福祉予算と、世界で最も福祉が充実していることで知られるスウェーデンでも、1995年に、かつて遺伝病者や知的障がい者に対して強制断種・不妊手術が行われていたことが明らかにされ、衝撃を与えた。
福祉が充実している国家では、そのぶん残酷な話であるが、財の支出を切り詰めたいために、特別な支出を要する国民の増加を防ごうとする傾向がある。
〈自由の国〉アメリカでも、今から100年ほど前、名裁判官にして名法学者として名高いオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(1841─1935)が強制断種を肯定したことがあった。
第一次世界大戦後、英米の社会的急進派は科学の力で社会に有益な子孫をできるだけ多く残そうと考えたが、その裏返しとして「社会的不適格者」がこれ以上子孫を残さないようにと、知的障がい者、常習犯罪者などに強制的に断種を施す政策を推し進めたのである。
とくにアメリカのヴァージニア州では1927年に断種法が施行され、遺伝性知的障がいと診断された女性が強制的に断種されることになったが、その州法の違憲性が問われた連邦最高裁判所の裁判でホームズは、「我々が無能力者に忙殺されることを防止するために、国家の力を弱める人々に対しわずかの犠牲も要求できないのは奇妙なことだ」と、この州法に理解を示したのである。
「小さな政府」は意外と優しい?
ちなみに、福祉政策の充実に批判的で「小さな政府」を標榜する政府には、生まれてくる子を選別しないという特徴がある。
1980年代のアメリカで、重度の障がいを負って生まれた新生児に対して、医師と両親が「長くは生きられないし、生きていてもたぶんこの子は苦しく不幸だろう」と判断して安楽死させたという事件(ベビー・ドゥ事件)が起こったが、これに対してインディアナ州最高裁判所は、乳児を安楽死させるという両親の決定権は、「生命の質(Quality of life)がほとんど無に等しい場合」には、乳児の生きる権利に優先する、と両親の決定を認める判断を下した。
しかし、それを知った当時のレーガン大統領は直ちに、これは児童虐待、差別だとして反発し、司法省と保健福祉省に指示してあらゆる障がいをもつ新生児の治療を義務づけるガイドライン「ベビー・ドゥ規則」を施行した。
それは「生命の質」が無に等しいことを理由に新生児への救命医療処置を停止してはならないという姿勢を示すものであり、この規則によって治療や手術を拒否する親たちの一部は裁判所から親権を?奪され、子の監督権は州に譲られた(しかしその後、アメリカ小児科学会とマスメディアの反対によってこの規則は廃止された)。
レーガン大統領といえば「小さな政府」として減税政策をとり、反福祉国家的な自由尊重主義者として知られているが、個人の自由を最優先するという点から、生まれてくる生命にはすべて生きる自由があるという考えも持っていた。
さて、どうだろう? 国が国民の面倒を見る代わりに、社会の負担になる生命を生み出さないでくれ、と言われるのと、国は特に援助はしないが、いろんな生命が自由に生まれ生きてくれ、と言われるのと、あなたはどちらに共感するだろうか?