意識のベースが根本的に移行してみると、今までの自分の意識をなしていた精神力は、今では、全身の腱などのひどいこわばりや突っ張りとしてしか感じられなくなってきましたが、これってなんか、全身「大リーグ養成ギプス」状態なんですが。

あのマンガの作者の方ももしかすると、全身がこわばっていたのかもですね。

「こわばる」というのは「強張る」と書きますし、ご飯が固いことも昔は、「ご飯が強い」と書いて「こわい」と読みましたし、日本語では実は、「強い」ことと「怖い」こととが、なんか重なっていたようです。

めちゃくちゃ意味深ですよね。

で、この「意味深」という感覚も、実は、意味の奥行きの深さを感じているわけなので、持続の覚醒につながります。

そうすると、例えば、普通のラーメンとかでも、「奥行き」が感じられたりしてきて、世界とは奥行きだったのか、ってなことになります。

で、こうなってくると、例えば、阿字観瞑想と、ラーメン屋でラーメンを食べることとが、実は本質的に同じ体験であることが感じられてくるので、そういう、あらゆる差異の無意味性が感じられてきたところで、ダンテス・ダイジは「ニルヴァーナは、オナラ・ブーだ」(『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』、p.74)と発言したんでしょうね。

ただ、だじゃれではありませんが、ダイジさんは、個人としての自分は大事にできなかったみたいなので、最後は自覚的に餓死することで世界を離脱しましたが。

つまりあれは、彼自身のインナーチャイルドを「餓死」させることで覚醒したことの「結果」だったというわけです。

ここで私が「差異」と呼んでいるのは、単なる形の上での違いのことではなく、この場合は、例えば「聖なるもの」と「俗なるもの」の差異という、存在論的差異のことです。

「聖なるもの」の典型として「阿字観瞑想」、「俗なるもの」の典型として、ラーメンを食べることを対比させました。

「聖なるもの」と「俗なるもの」は、形としては対等、水平的ですが、本質的なところで、どうしても「聖なるもの」の方が「格が上」みたいな感覚があります。

つまり、差異とは「水平的」な違いのことではなく、いわば「垂直的」な違いのことですね。

そこに感じられる、一種の「次元断絶」あるいは「次元断層」のようなものを、さっきはとりあえず「差異」と呼びました。

ワプニック博士が、「奇跡講座でいう罪悪感は「存在論的罪悪感」である」(JACIMの翻訳では、Q&Aの113番です)というのは、この差異に関する言及です。

存在論的罪悪感とは、自分は神を攻撃し、特別な自分として存在しているという感覚自体にまつわる罪悪感のことです。

つまり無意識では、自分は「罪の子」だと感じる罪悪感のことです。

その存在論的罪悪感が知覚の基盤をなしているために、例えば、自分がどんなに「よい」「聖なる」ことをしても、決してその罪悪感が取り消されることはない感覚なども生じたりしますし、世界で体験する個別的・具体的な罪悪感や、世界や他者の中に感じられる罪悪の源が、この存在論的罪悪感であるのはもちろん、そうした罪悪や罪悪感は、実は、この、存在論的罪悪感を隠蔽する目的があるわけです。

どういうことかというと、こうした、日々味わう罪悪感にとらわれ続けることにより、人は、そうした罪悪感の真の源である存在論的罪悪感を直視することから逃げ続けることができて、自分の存在そのものにまつわる「罪深さ」から逃れられる(と信じている)からです。

なので、そうした罪悪感の真の源に目を向けずに、個別的・具体的な罪悪感にばかり対処し続けることは、実は、真の癒やしに着手することへの抵抗感に由来する場合があります。

言い換えますと、そうした個別的・具体的な罪悪感に対処し続けることは、実は、本当の意味での罪悪感、つまり、存在論的罪悪感への対処という点からは、むしろ遠ざかる場合もあります。

なので、こうした対処は、中毒性があります。

ワプニック博士の解説による奇跡講座の実践と、他の多くの教師の実践とが区別されているのは、おそらくこのためではないかと思われます。

これはもちろん、具体的・個別的な罪悪感に対処すること自体が「いけない」ということではありません。

そうではなく、それは何のためにしているのか、ということを踏まえることが必要だということです。

それを踏まえた上であれば、そうした個別的な罪悪感に対処することは、ちゃんと有用性がありますから。

ただし、個別的・具体的な罪悪や罪悪感が意識に現れる目的はというと、実際のところ、本当に目を向けるべき存在論的罪悪感から目をそらせ続けるため、ということになってしまいます。

それらに気をとられることにより、一時的ではありますが、存在論的罪悪感がもたらす心の痛み、実存的な痛みを紛らわせることができるからです。

そしてここが、先ほどの「差異」の話で言う、水平的と垂直的との差異にもなります。

つまり、個別的・具体的な罪悪感は、「水平的な」視野において知覚されるものであり、存在論的罪悪感は、「垂直的な」視線方向において自覚されるものだからです。

ですが、存在論的罪悪感の隠蔽は非常に巧妙かつ濃密なため、通常は、自覚しようとしてもほぼ不可能です。

例えば、個別的・具体的に日々感じる罪悪感を、隠蔽されている存在論的罪悪感にアプローチするための「きっかけ」として利用する、という方向性が考えられます。

これができるようになると、このこと自体が、「水平の知覚から垂直の知覚への移行」(T-1.II.6:3)をしていることになります。

ですがここには、聖霊の援助がどうしても必要なようです。

さて、ヌーソロジーをしている人なら、ここでいう「水平」と「垂直」というのは、ほぼ、幅と奥行きに該当することが、お分かりいただけるかと思います。

ですから、神は遍在するために、ありとあらゆるところが実は「神の影」なわけで、それを隠蔽するのが「幅化する」という罪悪感だというわけです。

なので、生きることにおいて完全に行き詰り、自分が話すことや、やることなすことが、いい、悪いに関わらず、ことごとく、何でもかんでも、ただひたすら罪でしかないとか、もう、自分が存在していること自体がそもそも「罪そのもの」であるとしか感じられない、という感覚になったときが、実はこの、存在論的罪悪感が意識の上にダイレクトに浮上してきた状態なんです。

そうするとこれは、日本語としては、一見同じような「罪・罪悪感」ですが、英語で言えば、guiltからsinへと移行しているわけです。

先ほどの「水平的・垂直的」という表現と絡めると、guilt とは水平的であり、sin とは垂直的である、ということが可能になります。

普通の表現で言い換えると、guilt とは、世界や出来事や他者との関係において感じられる罪悪や罪悪感のことであり、同じguilt が内的体験として感じられるときには「罪悪感」で、出来事や他者の言動や事実関係の連鎖として感じられるときには「罪悪」として知覚される一方で、sin とは、神と自分との関係において自覚される罪意識そのもののことである、ということになるのかもしれません。

さて、ですが、そのsin から逃れようとして、その、まるで文字通り「地獄の業火で焼かれ続けている」というぐらいの苦痛に満ちた感覚を自力で何とかしようとしても、それはつまり、「罪深い」自分が自力で罪から逃れようとすることなので、どんなに頑張っても「罪深さ」から逃れることはできませんから、原理的に不可能です。

なので、ここで「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」で、罪悪感から逃げ続けるのをやめて、自分の「罪深さ」に向き直り、その感覚に対して自覚的に「はまり」、ただプロセスに委ね、もはや自分ではあれこれと何もしないことで、結果としてそれらを聖霊の手に託すことになり、そうしているうちに、次第に、罪悪感、というか罪意識、が少しずつ、自然に消えていきます。

そうすると、何か、実ははじめから何もなかったのではないかというような、あるいは、まるで今、生まれたばかりのような感覚になっています。

それが、罪からの解放になります。



ただし、個別的な罪悪感自体は、実は、一種の「後遺症」のようなものとして、しばらくは残存するようです。

なので、ここからようやく、一つ一つの罪悪感に対処できるようになる、のかもしれません。

つまり、まず罪悪感の根元を断つことから、ですね。

そうするともう、あとの個別的なもろもろは「雑魚」なんで。

ただし、雑魚だとはいえ、具体的な規模としては、相変わらずですよ。

でも、そうした形としての規模が自分にとってダイレクトなインパクトをもたらさなくなっています。

根源が自我から神へと移行したからです。

なので例えば、それからも私は希死念慮が来たりしましたが、希死念慮自体の苦しさは、それはそれとして、罪から脱同一化し、根底が解放された自分の感覚としてはもう、「ああ、また来たなあ」という程度でしかありませんでしたから、今までにやったように、ただそれとともにあり続けて、形としては普通に生活することで、いつの間にか自然消滅していました。

そんなもんですから。

で、罪悪感って、ちゃんと自覚的にはまってみると、それを敵視して嫌っていたときには分かりませんでしたが、意外に「居心地がいい」ですよ。

なんだか、「サウンド・オブ・サイレンス」の歌の冒頭の、「やあ、闇よ、僕の旧友よ、また君と話すためにやってきたよ」というのは、このことを歌ったのではないかと感じるほど、何か「懐かしさ」のような感じがしました。

つまり、罪悪感を嫌い、抵抗してジタバタしているうちは、実は、それはむしろ苦痛を増すようなことをしていたわけですね。

そして、そうした罪悪感への嫌悪感と、罪悪感そのものが持つ「奇妙な居心地の良さ」とが中和され、相殺されていくと、そこにははじめから何もなかったかのような、自然な感覚、つまり、本来自分があるはずだった感覚、が、次第に自覚されてきます。

その、新たに生まれた感覚から生きることにより、少しずつですが、罪から解放された自分が次第にはっきりしていきます。

先に書いた、ありありと実感するプロセスをくぐり抜けていれば、もう、多少の揺れ戻しがあっても、決して元の状態に戻ることはありません。

それは、自我による恐怖から神の愛へと、知覚のベースが移行したからであり、この移行のことを奇跡講座では「根本的変化」と呼んでいるようです。

ただし、私のたどった道は、奇跡講座の提唱する道とは、どうやら、形態においてはかなり異なるようです。

簡単に言うと、私の「方針」は、結果としては、日月神示で言う「悪を抱き参らせる」というものだったようです。

もちろん、私個人がこの方針を採用したのではなく、私の中の、「もしかすると、これが真実なのかもしれない」という、かすかな「内的感覚」に沿って採用したものですが。

ですがこれは結局のところ、「「罪深い私」は、本当に罪深いわけではなく、ただ、一種の「催眠術」にかかっていて、「自分は罪深い」という信念に完全にとらわれているために、それがすべての知覚を構成する基礎になっていて、結果として自分の無罪性が全く感じられなくなっているだけである」ということですから、本質的なところにおいては、奇跡講座が提唱していることと共通しているのではないかとは感じます。

ただし、この「催眠術」を解くことが、自力では不可能なんです。

というのは、罪から解放される前の自分の成り立ちが罪によるものですから、「罪深い私」が「私は罪そのものである」という催眠術を自分で解こうとすることは、自分自体もまた消え去るのではないかという恐怖に直結するからです。

無理にこれを自力でやり抜こうとすることは、今度は自分の中に「矛盾」を内包することになります。

つまり、一見、形としては罪の非実在性を実感したかのような形をとることはできますが、実はそれは、ただ、罪を「丸め込む」ことに成功しただけ、ということです。

ここにはどうしても、「自分」というシステムの「外部性」が必要不可欠であり、その「外部性」を担っているものが聖霊です。



なぜ、こうした道のりを経ることが必要かというと、例えば、「自由」ということ一つとってみても、実はそこには全く相反する異質なものが、同じ「自由」という言葉で表現されているからです。

その異質性に関して、例えば、「自由と放縦とは異なる」とか、「自由には責任が伴う」といった表現で、なんとかその差異を明確にしようとしていますが、こうした表現ではどうしても、その差異を明らかにして、その本性を突き止め、それを中和することができません。

その差異は構造的なものであり、また垂直的なものだからです。

ですが、従来の言葉は基本的に、水平的な違いを区別するように機能します。

色彩で言えば、光そのものに属する色ではなく、反射光としての色の水平的な色相環における名付けです。

なので、言葉によって考えている限り、すべての差異はフラット化し、相対化し、つまり「水平化」します。

つまり、言霊である本来の言葉が、いわば「形骸化」したものが、現在使われている言葉であり、それが、ここで私の言う「従来の言葉」です。

また、構造面に対する解像度も、従来の言葉では不十分です。

本当に構造面の差異を明確にするのであれば、従来の言葉に備わっている論理性だけでは不十分であるため、群論などの、やや複雑な論理操作について知る必要があるようです。

例えば、私が体当たりで苦しむ中からつかみ取ってきた理解のための知恵が、実は、ある人によると、それは実質上、群論で言うSU(2)というシンプルユニタリー変換の一種だということらしいです。

なので、言葉で考えている限り、「これはただこういうものだから」としか捉えられず、ただ信仰の問題になってしまうようなことでも、こうした明晰な論理性を備えることで、明確な知性を伴って理解できるようです。

ただし、そうした、いわば5次元的概念を的確に表現する言葉は、今のところ、ヌーソロジーの中で用いられている「シリウス言語」というものしかないようです。

ですので、従来の言葉によって考えているかぎり、水平から垂直への移行を果たすことはできません。

これは、体験の質そのものの変化なので、体験しなければ何も分かりませんし、また、体験すればすべてが自明のことになります。

こればっかりは、どうしようもないようです。

そして、差異を明確にする必要性は、差異そのものにあるのではありません。

差異は多層的、重層的に重なっていますが、真の同一性は、そうしたすべての差異を超えたところにあるからです。

そうした差異をただ切り捨てても、真の同一性は見えてきません。

まして、例えば、毒親が実在するとしか見えないような、従来の知覚の中では、真の同一性を感じることは、まず不可能です。

ですから、潜在化している差違を明確にする、つまり差異が顕在化することによって、その「向こう」が見えてくるにつれて、次第に、同一性とはどういうことであるかが感じられるようになってきます。

たぶんこれが、奇跡講座では「真の知覚」と呼ばれているのではないかという気がします。

ついでに言うと、自我にすっかりとらわれている状態というのが、すべての差異が潜在化している状態です。

なのでその段階では、物事はものすごく複雑で多様であるようにしか見えず、また、たたみ込まれた差異を通して物事を解釈しているために、実在しないものが実在しているかのように見えていて、それがリアルであるという前提の元に生きています。

それがつまり、世界は幻想であるということです。

世界が幻想だというのにはもう一つ段階があり、それが、世界自体が幻想だというものですが、出発点においては、この、自我を通した解釈によって知覚される世界が幻想だ、ということです。

ですが、こうしたことは、ワプニック博士も繰り返し述べていますけどね。

つまり、世界自体はニュートラルであり、そこに対する自分の解釈が幻想であるという段階と、世界自体が幻想であるという段階です。

ですが、いかに自分の解釈が幻想に過ぎないかは、もう、体験してみないと分かりません。

例えば、「狐につままれたような」という表現がありますが、あれは実は、自我による解釈の世界からごくわずか脱出あるいは「逸脱」したときに味わう感覚についての描写です。

自我による解釈は幻想であるということを、ただ言葉だけで理解することはできません。

というのは、例えば、「あの人は私を攻撃している」としか思えないとしたら、それがまさに、自我による解釈なのですが、それはもう、完全に自分にとっては「リアル」であり、完全に整合性を伴っていますから、それ自体が幻想なのだということは、知的には絶対に分かりません。

正直、自分が完全に気が狂ってしまったのではないかというほどの内的混乱状態を、自覚的にくぐり抜けないと、自我のもたらしている空間のゆがみから自由になることはできません。

これが、奇跡講座では「実相世界への橋を渡る」として書かれていることです。

そして、そうすると見えてくることは、例えば、先ほどの「あの人は私を攻撃している」という知覚ですが、これが実は、その人が自分自身を攻撃していたのだということがわかってきます。

つまり、まさにその人は「私」を攻撃しているのですが、それをこちらは、こちら側にいる自分が攻撃されていると知覚していたわけです。

そのように、人が見せている姿はすべて、その人が自分自身に対してとっている態度なので、そうするともう、人のことをあれこれ言いたくなる気持ち自体が、いい意味でどうでもよくなってきます。

まあしかしそうすると、例えば、自分が尊敬していた人が、実は自己陶酔していただけだったのだということが見えてきたりして、それはそれで辟易してきますが(笑)。

でも実際、ここまで来て、はじめて、ナルシシズムという問題の本質が見えてくる、というのも事実です。

逆に言うと、ここまで来ないと、ナルシシズムが何をしているのかは、十分にはわからないということでもあります。

さらに言うと、フロイトの定義によるナルシシズムは、どうも、当時の時代や文化などの制約を受けていて、実際のナルシシズムとはどうも異なるのではないかという気もします。

さらに言うと、テキストで「そうなると彼が経験するのは、憂うつか怒りのいずれかとなる。なぜなら、彼のしたことは、自己愛(Self-love)を自己嫌悪(self-hate)へと取り替え、自らを恐れる者になるということだったからである」(T-12.III.6:3)という箇所で、「自己愛」が太字になってるいということは、つまりこれは、真の自己への愛なわけですが、ですから、「自分を愛する」ということの意味や本質は、実はここにあるというわけです。

ですが通常はどうしても、「自分を愛する」というのはすなわち、「自己概念を愛する」ことになってしまうのですが、これが、否定的な意味でのナルシシズムです。

なぜなら自己概念こそがまさに、「自分が自分だと思っている自分」、つまり、「こういう感じなのが自分だ」という感覚の集積なのですから、つまりそれは平たく言うと「自分らしさ」のことなので、これ自体を超えていくことは、これもまた、聖霊なしには不可能なわけです。

いきなり走りすぎたので、今回はこのぐらいにしておきますが、ここで一つだけ注意を述べておきます。

例えば、T-31.VI.6、「あなたは傷つかざるものだろうか。そうであれば、あなたの見る世界は無害である。」で始まる段落では、世界はこう見えるようになるという意味のことが書かれていますが、ここで、例えば、「そうであれば、世界はあなたの信頼に充分に応える安定した場所であると見られる」(T-31.Vi.6:8)という文がありますが、こうした言葉が意味していることはつまり、この世界において平安や安心などを実感することです。

なのでこれは、例えば「世界は幻想だ」という言葉で自分を説得することではありません。

これは批判する意味ではありませんが、どうしても、奇跡講座の実践は、「自分に対する膨大な説得工作」の面を伴いますが、それはまだ「準備段階」です。

その次には、「説得工作」自体を放棄する段階があり、そうして自己の実相を思い出すと、はじめて、それまでのすべての学習が、生きた実質を伴うようになります。

そして、むしろそこからが、もしかすると本当の意味での実践になるのかもしれません。

少なくとも私はそうです。

なのでこれは、誰か他の人のことではなく、私自身のことなのですが。

ですが、存在論的罪悪感が癒やされた後の道のりは、それまでとは全く質が異なります。

それまでは、恐怖や罪や罪悪感や攻撃や、といったものがベースになっているものが、そこから先は、神の愛や赦しや平安や喜びなどが「当たり前」になります。

この、平安と喜びが同じものであるということが、従来の世界の価値観では理解できません。

例えば、平安なのはいいけど、とても退屈だろうというように感じるからです。

ですが平安とは実際には、常に増大する静かな喜びの感覚、というようなもののことです。

そしてその喜びが感じられるようになると、世界の側からも実は喜びが放射されているのが感じられて、それがレッスン151かなという気がします。

また、そのレッスンの中に、「あなたは、……世界の上に天国の祝福のみを、見るようになる」(W-pI.151.11:3)と書かれているように、この段階ではまだ、世界自体が消え失せてしまうわけではありません。

そうではなく、ただ、世界について自分が投げかけていた先入観が撤回され、世界の実際の様子が見えてくるということです。

その、世界の実際の様子というのが、実相世界ということと関連しているのですが、ここまで来ると、これは実は、「実際の世界」ということではないかという気がしてきます。

「実相世界」と訳されている元の言葉は、「real world」なのですが、これは素直に訳すと「現実世界」「実際の世界」「本当の世界」などになりますが、実はこれは実際に、単に文字通りの意味であり、「実相世界」というようなたいそうなものではありません。

これがたいそうなもののように思うのは、従来の世界が現実の世界だと信じている状態では確かにそう思われるからなのですが、その「現実の世界」の方が実は幻想の世界ですから、幻想から見たときには、現実というものは幻想からはかけ離れているもののように感じるから、現実世界はたいそうなもののように思われている、ということなのでしょう。

ただし、ここで言う「現実」というのは、すべてが神の愛に根ざしているのが実は「当たり前」だった、という意味での「現実」ということですが。

このように、実践においてある局面を通過すると、何もかものベースがそれ以前とは完全に逆転するようですが、そうするとわかるのは、奇跡講座はその、すでに知覚の基礎が神の側に逆転した状態から書かれている、ということです。

だからこそ、手をつけ始めた当初は、とてつもなく難解で困難なことが書かれているように感じるわけですが、それは書かれている内容と自分の日常的体験世界との距離が遠いからではなくて、いわば両者の「空間曲率」とでもいうようなものが互いに逆転しているから、ということのようです。

ですから、奇跡講座に書かれている文章が、実は当たり前のことが書かれていたとわかると、知覚が自我ではなく神に基づくようになりましたね、という「太鼓判」が得られる、という「仕組み」もあるようです。

(まあ、そんな細かい仕組みが実際に仕掛けてあるわけではないので、これは少し冗談めかして書きましたが、体験すれば、このことか、とわかるでしょう)

なので、学習および実践が進むにつれて、奇跡講座で書かれていることは、すべてではないにしてもかなりのことが、実は、日常的に体験することに関して極めて具体的に書かれているのだということがわかってきます。

ただしその具体性は、心の次元でのことなので、同時にまた、とてつもなく壮大なことでもあるわけです。

真の知覚が広がっていき、深まっていくにつれて、確かに、旅の風景はかなり異なってきますから。

さらに言うと、世界の上に投げかけられている天国の祝福が感じられるようになったからといって、直ちに、例えば世界平和が訪れるというようなこともないようです。

ただし、自分の「心境」は、全然異なっていますけどね。

なので、世界がたとえ混乱していっているように思えていても、自分が日常的に体験する世界では、どんどん恒常的な平安と喜びなどの感覚が増していく、ということが、現に私が今年の春頃からずっと体験していることですから。

というのは、客観的な世界と、自分が日々具体的に体験する世界は、実は、全く別物だからです。

さて、なので、奇跡講座に書かれていることを、この地上において体験することは充分に可能ですし、実際にそう書かれているんですけどね。

だからこその、先に引用した T-31.VI.6 なのであり、ここからわかることは、自分が世界や他者などをどのようなものだと感じ、どのようなものだとして体験しているかが、自分が今、神に帰る道のどこにいるのかを指し示している、ということです。

また、例えばT-31.I.8に書かれているようなこともまた、実際の世界が実はどのようなものであったのかについて書かれていますしね。

ですがこうしたことは逆説的に、「世界を放棄する」(T-30.VI.9:4)によってわかるわけなんです。

つまり、「世界を放棄する」というのは、この世界を物理的に捨て去るということではなく、自分が世界に対して投げかけていた、自分なりの世界解釈への愛着や執着を放棄する、という意味だったわけですね。

そのようにして、自分なりの先入観や裁きや解釈や思い入れなどから世界を解放する、つまり世界を自由にさせてあげる、と、世界が実はどういうものだったかが見えてくるようになる、というわけです。

他者に対しても、基本は同様であり、まずは、そうした自分なりの思い入れから他者を自由にすることです。

そうしてはじめて、実は世界にも他者にも問題はなく、問題はひとえに自分の側にあったのだということがわかります。

これが文字通り、宇宙や時空のすべての問題が実は自分の側にあり、自分は自分の罪ゆえに、他者を延々と悪者にし続けていた、と実感するほどの、とてつもないスケールなので、いきなりここにアプローチすることは、奇跡講座でもおすすめしていないわけです。

下手をすると、ショックのあまり、自死してしまいかねませんし、私自身も40年近く希死念慮に苦しんできた体験からしても、実際に、自死してしまった方の中には、こうしたことに無自覚のうちに触れてしまった方もいるのではないかと思います。

自我は神の子を殺そうとしているというのは、実感するとこんな感じです。

そしてこれが、存在論的罪悪感に触れることであり、こんなに膨大な罪悪感なのですから、それはもう、いきなり直面したらたちまち気が狂うほどのものなので、だからこそ、罪悪感を世界や他者に常に投影し続けていないと、マジで身が持たないわけです。

まあしかしこれは実は、普段の状態の方が狂っているのですから、ここでいきなり気が狂ったかのような感覚がするというのは、新しく狂ったわけではなく、単に、それまでは潜在的だった内的狂気を突然自覚する、ということなんですけどね。

で、罪悪感が癒やされるというのは、これがすべて、実は幻想だったということが実感される、というわけなんです。

単に知的にだけ否認するのではなく、です。

ですから、本気でこうしたことに取り組もうとするのは、ある意味でめっちゃ酔狂なことなのかもしれません。

ですが私は断言しますが、これは取り組むに充分値することです。

わかってくるまでは五里霧中や暗中模索な感じもあったりしますが、とにかくイエスを信じて、世界や他者がいよいよ狂っていくかのように感じられるという、外界として現れてくる自分の心の闇をひたすら通り過ぎていくと、まるで、深い霧が晴れていくように、少しずつ心の視界が明るくなってきて、これはもう、宇宙物理学で言う「宇宙の晴れ上がり」とは文字通りにこのことではないかというぐらいに感じられてきます。

そして、五井昌久の「消えてゆく姿」というのも、実はまさにこのプロセスのことだったんだな、ということも思います。

私自身は、その団体には何の関係もありませんが。

私の感覚で言うと、知覚されるすべては「終わった話」なんだな、ということです。

もうそれらが自分の中では「終わった」からこそ、外界として現れて、やがて消えていくのですから、自分にできることはただ、それらを通り過ぎていくことだけである、というわけです。

そしてこれこそが、奇跡講座で言う赦しの本質なわけであり、この「通り過ぎる」というキーワードは、トマスの福音書の中の言葉ですが、つまり、イエスさんの時代から、本質的なことは何一つ変わっていないわけです。

まあ私は、1996年にはじめてこれ、つまり無意識の罪悪感、そして存在論的罪悪感、をいきなり感じてしまい、パニックになって精神病院に緊急入院になりましたが、それから25年かかってようやくここまで来てみて、振り返ってみると実に大変でしたが。

まあ、だからこその、「救済とはまさしく逆説(パラドックス)である! それは幸せな夢以外の何であり得るだろう。救済があなたに求めることは、もとより誰も行(おこな)っていないことのすべてを赦すことであり、存在しないものを看過することであり、非実在なるものを実在のものと見なさないというだけのことである」(T-30.IV.7:1-3)というわけです。

なので、例えば、罪について言及しましたが、それもまた夢だったのであり、実は一度も自分ではなかったものだったので、赦しというのは、「一度もあなたであったことのないものについての夢のすべてから自分自身を自由にさせ」る(T-30.IV.7:5)というわけです。


こうしたことのすべてを視野に含んで、奇跡講座は書かれているわけですね。

そうして、実は、罪から自由になって、はじめて、自分は本当の意味で他者と関わることができるようになります。

それまでは、自分は他者と関わっているつもりでも、実は他者の姿に投影された自分の影とだけ関わっていたのであり、実は自分は未だに、真の意味では他者と出会っているわけではありません。

つまり、言い換えると、自己と他者の真の同一性を理解していません。

それがわかるというのが、つまり、「兄弟の中にキリストを見る」(T-30.VIII.5:8)なのかもしれません。

ですがそれは、自他の対等性に基づくことであり、「先導者と追従者」(T-31.II.3-5)の問題がその認識を妨げているというのもあるようです。



そして、ここまで来ると、他者というのは実は、自分が罪から解放されてありのままの自分に戻って存在することを、実はずっと待っていたのであり、ここからようやく、真の意味での関わりが始まるわけであり、そして、「愛から生じるものはすべて奇跡である」(T-1.I.3:3)とはいえ、ここに来るまでは自分は、愛が何なのかがそもそもわかっていなかったというわけなんです。

だから、本当に意識が覚醒してくると、実は他の人はすでに覚醒していて、自分が覚醒するのを待っていて、自分は「最後の一人」なのではないか、というように感じられてきたりもします。

で、もう本当に、例えば、「安定性を欠いているのはあなたの解釈だけであり、それは、あなたの解釈があなたの真の本性と整合していないからである」(T-30.VII.7:3)とかも、ただ間違っているのは自我による解釈、つまり自我を通して捉えた解釈だということでもあります。

(「による」も「を通した」も、どちらもこの場合は英語の「through」で言い表せます)



一応、存在論的罪悪感と、そこからの解放という観点から、少し読み解いてみました。

はじめの連続ツイートは、冒頭の約1/4ぐらいだったのですが、手を加えている間に話がなんかどんどん止まらなくなってしまい、久しぶりに気がついたら徹夜してしまいましたが。

書いてみて、自分もまだまだこれからなので、とにかく、歩き続けることだなあと、改めて感じました。

最近は、とにかく、「個人的な願望」という「想念の層」とでもいうような領域が、思いのほか分厚いことがわかってきて、そこを通り過ぎるのに一苦労しています。

例えば私の場合は、自分が愛されていると実感できる形で愛されたいというものがかなり強いようです。

とはいえ、これはもう、私個人のことにとどまらないのかもですが。

なのでこれは、層が分厚いというよりは、私がここにものすごく愛着や魅力を感じている、ということなのでしょう。

ものすごく長くなってしまったので、今回はここまでにします。